プロローグ


 かげろうの塔の一件から一年近くが経過した。

 そして場所は龍の里にある俺の自宅だ。

 俺はすずめの鳴き声と一緒に起床し、ベッドから上半身を起こす。

 寝ぼけ眼で周囲を感慨深く見回した。

 龍王から貰った邸宅は無駄にだだっ広い。

 寝室ですら四十畳位はあるレベルの呆れるような広さだ。

 そして、天井まで七メートル位あり、更に、そこにはシャンデリアが彩られている。

「……いつ見ても、これは酷いな。自宅のはずなのに全く落ち着かねえ」

 部屋の壁を彩る絵画と装飾類。

 エメラルドやアメジスト、そしてダイヤモンド。宝石という言葉がここまで軽い室内も珍しい。

 ベッドからして五×五メートルの超キングサイズの総シルク仕立てだ。

 はぁ……と俺は溜息をつく。

 そこで、掌にムニュッという感触があった。俺の掌の先、そこには薄い胸。

 未だに夢の中にいるリリスの唇が軽く開いた。

「…………んっ」



 しばしのフリーズ。

「うおっ!」

 俺はその場で大きな叫び声をあげた。

「………………んっ?」

 そこでリリスも目を覚ましたらしく、眠たげに瞼をこすった。

「……ん。おはよう」

「ああ、おはよう……後、俺のベッドに勝手に侵入するのは止めろと前から言っているよな?」

 陽炎の塔の後……コーデリアにタイマンを仕掛けたあの日。あれから、結構な確率でリリスはゆうびょうにかかるようになった。

 例えば、俺がコーデリアの話をした日の夜なんかに、都合良く……寝ぼけて俺のベッドにやってくる。

 そして気が付けば、朝方には一緒に寝ているという始末だ。

「……止めろと言われてもね」

「言われても?」

「……中々止められるものでもない」

「やかましいわ!」

 とりあえず、強めにゲンコツを落としておく。

「……痛い」

「そりゃあまあ、痛くしてるからな」

 ちなみに、陽炎の塔の一件のあの後。未踏の極地に赴いた時も。魔界におもむいた時も。

 俺とリリスは常に一緒だった。前回の時間を除けば、それは今生のコーデリアとよりもよほど多い時間だ。

「……とはいえ私はリュートが魔法学院に入学し、コーデリア=オールストンと再会する事が……納得できない」

「どうして納得できねーんだ?」

 見る間にリリスは涙目になり、そして俺の頭を両手でポコポコと握り拳で叩き始めた。

「……朴念仁」

 ポコポコ。

 ポコポコ、ポコポコポコ。

「……朴念仁」

 そこで俺は立ち上がり、リリスから逃げるように部屋の入口に向けて駆け出した。

「とっとと飯にするぞ」

 その言葉でリリスもベッドから起き上がり、毛布を剥ぐ。

 ……そこで俺は息を呑んで、目を見開いた。

「……リュート? どうした?」

「…………」

 あまりの事に、俺は言葉が出ない。

「…………どうした?」

 深呼吸し、視線をリリスからズラした。

「あのさ……リリスさ……?」

「……だから、どうしたと……先ほどから聞いている」

「…………パンツ一丁はダメだって……前から言ってるよな?」

 そこでニコリと笑ってリリスはこう言った。

「どうせ、この家にはリュートしかいない。そして、私は寝る時は裸が基本。むしろ……パンツを着用している事を褒めて貰いたい」

 ゴツン。

 俺はダッシュでリリスに駆け寄った。

 そして強め……というか、本気で彼女の脳天に握り拳を叩き込んだ。




 で、そんなこんなで朝食を終えて、俺とリリスは身支度を整えた。

 共に旅装だ。

 遠出の際はすっかり御馴染となった登山用のリュックを背負う。

 世界中を飛び回っていたからここにはあんまりいなかったけれど……。それでも──三年ちょっとか。

 なんだかんだでここにも大分世話になったな。そう考えるとやはり感慨深いものはある。

「それじゃあ行こうか」

 俺達は玄関に到着し、そして感慨深く後方を振り返り一礼してからドアを開いた。

 そこで俺は苦笑した。

 昨日、龍王の城で散々っぱらに里のみんなで……酒池肉林の大宴会──送別会をしたはずなのに律儀な二人の姿を見つけたからだ。

 一人は、いわずもがなのホスト姿……龍王。

 そしてもう一人は──俺をこの里に連れてきた赤龍だ。

「おう、オッチャン!」

「全く……お前はいつまで経っても言葉遣いが直らないな……いや、一番最初の時はそれなりに言葉遣いもちゃんとしていたような気がするのだが……」

 コミュ障で悪かったな。どんだけ怒られても日本にいた時からこれは直らねーんだよ。

 猫を被る事もできない事はないけれど、長続きはしない。

 特にオッチャンみたいなキャラ相手にはな。

 呆れ顔のオッチャンは、すぐに表情を皺くちゃにして涙声になった。

「…………帰って来いよ」

「結局……ここも二つ目の故郷になっちまったな。必ず帰ってくるよ」

 オッチャンは涙目で俺に抱きついてきた。俺もオッチャンを力強く抱きかえしてやった。

 と、そこで龍王が俺に声をかけてきた。

「……本当に行くのかい? この際だから言っておくけれど……」

「ん? この際だから?」

「人類が来るべき大厄災で危機に瀕したとしても……」

「瀕したとしても?」

「僕達のような龍族には全く関係のない話だ。正直にいうと、僕は君を可能な限りこの里に置いておきたいんだが……見ていて飽きないからね、君は」

 ははっと俺は苦笑した。

「引き止めるのが無理なのはお前が一番知っているだろうに。コーデリアを取り巻く環境……迫りくる大厄災。あいつがヤバい状況なら、そりゃあ俺は行かなくちゃならない。それに、二度目の人生では……まだ、これから先の未来は経験しちゃいない。だから、俺は魔法学院に入学して──コーデリアの側にいなくちゃいけない。何があってもすぐに対応できるように」

 そこで龍王もまた肩をすくめて苦笑した。

「時に……リリス?」

 呼びかけられて、リリスは驚いたように目を見開いた。

「……龍王……様? 私を……呼んだ? リュートの付き人でしかない私如きを……龍王様……が? 直々に……直接……声を……?」

 コクリとうなずき龍王はこう言った。

「それほど自分を見下げるべきではないよ、リリス? 君は強くなった。それはもう……この里においても僕を除けば最強クラスだよ。今の君は……本当にね」

「……光栄……と応じるのがこの場合は最も適切」

 そんなリリスに、やはり龍王は苦笑しながらこう言った。

「君だけでも残らないかい? 君は優秀な司書であり、魔術師であり、そして歴戦の戦士だ。龍族以外の茶飲み友達を、僕は求めているんだよ」

「……本当に光栄。けれど……」

「けれど?」

 はにかみながら、リリスはこう言った。

「……泥棒猫の女勇者の所に──リュートを一人で行かせる訳にはいかないから」

 そこで龍王と、そしてオッチャンが笑い始めた。

 それは堰を切ったようなと形容すればいいのだろうか、ともかく、二人はこらえ切れないという風に、腹を抱えて笑っている。

「ハハっ……クククっ……全く、リュート──君も中々隅におけないね」

 色んな感情が俺の胸に渦巻いたが、ただ一言俺はこう言った。

「……ぶっちゃけ、リリスの扱いには色々と困っている」

「だろうね。仙術関連の起動式や、呪術のデメリット打消しにも彼女は重要なピースとなっている。まあ、色々な意味で……ご愁傷さま」

「オマケに……幼馴染も割と強烈な性格してんだよな」

「ハハっ……そりゃあいい」

 愉快そうに笑いながら龍王は俺に右手を差し出してきた。

 その手をとって、互いに強く握りしめる。

「……必ず帰って来い、リュート──君の幼馴染とやらにも会ってみたい」

 俺はやはり苦笑した。

「コーデリアは断らないだろうが……まあ、リリスがコーデリアの同行にGOサインを出せばな」

「ハハっ。世界最強の一角にいる男が……女にはめっぽう弱いってのは、またお笑いだね」

「ああ、世話ァねえな」

 そこで龍王は押し黙り、俺も押し黙った。

 その場の全員が黙り、そこで一陣の風が吹いた。

「いくか、リリス?」

「……んっ」

 俺が一歩踏み出すと、リリスは俺の上着の裾を右手でつまんだ。

 リリスは外を歩く時、かなりの確率で俺の後ろを歩き──上着の袖か、あるいは裾をつまんで後ろをついてくる。

 何度言っても止めないので俺も半ばあきらめているのだが……。

 そうして、俺は後ろ手を振りながら二人にこう伝えた。

「龍王? オッチャン? この里での俺の本当の最後の試験……登竜門に着目しとけよ? 一発でかい花火を打ち上げてやんよ」

 そのまま俺は振り向きもせずにリリスを引き連れて里の外に向けて歩を進めていった。



 三十分程度の後。

 龍王の大図書館の庭園で、赤龍と龍王はティータイムとしゃれこんでいた。

 と、いうのもリュート自身が去り際に『登竜門に着目しとけよ』と言ったのだから、そのまま流れ解散という訳にもいかなかったのだ。

「風のように現れ、嵐のように走り去っていきましたね。龍王様」

「彼は漂流者だ。根無し草の度が過ぎて……元いた世界すらも飛び出してしまったのだから、それは仕方ないんじゃないのかな」

「ハハ。違いありません。ところで、本当に次世代の龍王をリュートに譲る気で?」

 しばし考え、ハーブティーに龍王は口をつける。

「半分は、彼に居場所を作ってあげるため……かな? まあ、たまには茶飲み友達として戻って来いという意味だね」

「と、おっしゃいますと?」

「……次期龍王に選任しておけば、着任するにしろ、固辞するにしろ、どちらにしても……しかるべき時期に、一度は戻って処理しなければならないだろう?」

「なるほど」

「でも……もう半分は……彼であれば、実際にその資質があると確信したからというのもあるね。何しろ──龍族最強トーナメントで僕に勝ってしまったんだから」

「一昨年のトーナメントですか……でも、龍王様……アレは本気ではなかったでしょう? ハタから見ていても手を抜いているのが分かったので、誰も次代の龍王がリュートだと……その事を本気だと信じてはいないですよ?」

 悪びれもせずに、龍王は首肯した。

「うん。そうだよ」

 ただし、と龍王は続けた。

「──十四歳の時点の彼相手には……だけどね」

 龍王の真剣な表情に赤龍の中年は息を呑んだ。

「……ならば、今はどうでしょうか?」

 肩をすくめて龍王はこう言った。

「さあ、どうだろうね? 本当に今の彼が相手であれば……僕にもどうなるかは分からない。でも、まあ、少なくとも……」

「少なくとも?」

「──彼はまだ十六歳。これから先に無限の可能性がある」

 その言葉を受け、呆れ顔で赤龍の中年はこう言った。

「そういえば、登竜門……下界との境に設置された──試しの門ですか?」

「ああ、オリハルコンで構成された……固く閉ざされた門だね。ちなみに、オーパーツの一種だね。古代龍族が里を完全に壁で囲んでいた時代の遺物……」

「今現在は、門を囲うべき壁は朽ち果ててしまい存在しない。けれどオリハルコン製の門は朽ちる事なく、街道の傍らにただそびえている……と?」

 楽し気に龍王は笑った。

「僕がリュートに吹き込んだ情報としては、この里を出ていく人間に対する試しの門なんだよ。固く閉ざされた門を開くには、門を破壊する必要がある。そして……門を開く事が出来れば、その者はこの里から本当の意味で自らの意志で出る資格を得られたとね。そしてそのチャレンジの結果に挑戦者は束縛されない。出て行きたければ出て行けばいいし、自身の力の無さを猛省し、戻りたいなら戻ればいい」

「龍王様?」

「ん?」

「……龍王様なら、オリハルコン製の門を砕く事は可能でしょうか?」

「うーんそれは難しい質問だね。まあ、ともかくこれは歴代龍王の申し送り事項なんだよ」

「申し送り事項?」

 そして、心底楽し気に龍王は笑った。

「この里を出て行った人間は三十人程度。その内、英雄と呼ばれた者は二十人程度か? まあ、その誰しもが……登竜門について吹き込まれ、チャレンジはした」

「けれど誰一人として成功はしていない……と?」

「まあ、ぶっちゃけた話ね。龍族としては一度受け入れた人間には外に出て行ってほしくはない。強者に我々は餓えていて、そして我々は寂しがり屋だ。一旦、龍族全体として強者と認めた者と離れるのは心苦しいんだよ」

「ええ、その気持ちはわかります」

「登竜門の試しで失敗して、馬鹿正直に里に戻ってくるならそれで良し。失敗して外に出たとしても、彼や彼女達は……この里に負い目を感じる」

「負い目……ですか?」

「正式な手続きを踏んで外に出た訳ではない……とね。そうであれば、彼や彼女の胸に龍の里はいつまでも深く残る……で、あれば」

「で、あれば……?」

「彼や彼女はこの里を忘れない。いつか、彼や彼女は戻ってくる可能性が高い。そうして、その時は我々は出戻りの歓迎会で酔い潰れる事ができる」

「なるほど」

「まあ、リュートであればひょっとすると……オリハルコン製の門の、そのかんぬきを破壊する事はできるかもしれないけれど──」

 と、その時、龍の里全体を閃光が走った。

 続けて鳴る轟音と爆音。更に続けて衝撃波。

 砂嵐にも似た旋風が周囲に吹き荒れ、そして龍王は絶句した。

 彼の前方二キロメートル程度の中空。

 それは丁度、登竜門の二百メートル上空だった。

 そう、オリハルコンの欠片が、無数に、そして広範囲に──空に虹色の破片が舞っていた。

 春の陽気に照らされた、古代の魔法金属が虹色に煌めきながら地表に降り注いでいく。

 それはまるで、昼の空に輝く花火のように。

「見事だね。閂どころか、オーダー通りに門そのものを吹き飛ばしてしまったらしい」

「ええ、特大の──昼の花火です」

 赤龍と龍王は互いに目を見合わせ、そしてニヤリと口角を吊り上げた。

「先刻の閃光──スキル:村人の怒りだね? そしてとうせんの気配と禁術の禍気──どうやら流石の彼も破壊するためには全力全開の本気を出さざるを得なかったらしい」

「全力を出せば……素手でオリハルコンを破壊・粉砕できるという事自体が……私には信じられませんが」

「ハハっ……うん。本当に君はとんでもない麒麟児を拾ってきたようだ」

「曰く、世界最強の村人らしいですから」

「世界最強の村人……か。うん──リュート=マクレーンを僕に引き合わせてくれた事、礼をいうよ」

「──私は何もしておりません。全てリュートが一人でやった事です」

 そうして。

 龍王と赤龍は、オリハルコンの欠片と粉末が漂い、虹色に煌めく方角に向けて──しばしの間、手を振り続けた。