序章 動き出す麗人
ヒナタ・サカグチは退屈していた。
神聖法皇国ルベリオスの宮殿内部に割り当てられた、自分用の個室にて。
この世界は、退屈だ。
*
この世界に落ちて来た時、ヒナタはまだ十五歳であった。
高校一年の入学式の日、家にいたくないという理由だけで登校した帰り道。
いつも通る神社の前を横切った時、突風が吹いた。目が開けていられなくなり閉じる。再び目を開けると、そこには見慣れぬ景色が広がっていたのだ。
ヒナタは喜んだ。
宗教に嵌まって以来、家を顧みる事のなかった母親から解放されたのだと思ったから。
父親はとっくに蒸発していた。競馬で大穴を当てると息巻き、結局残ったのは莫大な借金だけ。
そんな父親の振るう暴力に耐えられず、母親は宗教に逃げた。
せっかくヒナタが父親を殺し、母親の為に生命保険を受け取れるようにしたというのに……。
もう少し待てば、保険金が下りたのに。
バレるようなヘマはしていない。
父親は蒸発した、それで十分だった。
しかし考えてみれば、このままでは更なる殺人を犯す必要があった。母を嵌めた宗教関係者を殺し、いずれはその母親さえも、自らの手にかける事になっていただろう。
ヒナタは、冷静にそう分析している。だからこそ、家にいたくなかったのだから。
ここならば、これ以上の殺人は必要ない。そう思っていたのだが……。
「おい、ここにもいたぜ!」
「お!まだ若い女じゃねーか。やったな!」
「売っ払う前に、味見してもバレないよなぁ?」
そんな事を喋りながら、ヒナタを取り囲む男達。
ああ……ここも、一緒か。
世界は、絶望に満ちている。
そう思えた。
醜い者の多い世界。そんな世界など、滅べばいい。
──私ハ、奪ウ。私カラ何モ奪ワセナイ。
《確認しました。ユニークスキル『簒奪者』を獲得……成功しました》
──私ハ、正シイ。私ノ計算ニ間違イハ、ナイ。世界ハ常ニ、不変ナノダカラ。
《確認しました。ユニークスキル『数学者』を獲得……成功しました》
唐突に、視界がクリアになった。心の靄が晴れ、思考が冴え渡る。
目の前の男達が私を奪おうとするのなら、先に私が奪ってしまおう。
──その命を。
そして、殺戮は行われた。
ヒナタの手によって三人の男が殺されるまで、五分も要していない。能力に目覚めたばかりのヒナタの身体能力は、決して高くなかったにもかかわらずだ。
それが、この世界で犯した最初の殺人。
ヒナタに親切な者もいたが、ヒナタはその人を信じる事が出来なかった。
何故ならば、弱かったから。
いつか自分の手で殺してしまいそうで、その人のもとからも去った。
それからも何人も人を殺し、知識と技術を奪った。
ヒナタはその力を拠り所として、この世界に君臨する強者となったのである。
そして月日は流れ──
ヒナタは出会った。
──彼女が仕えるに相応しい、神に。
この世界には、神が実在する。
もう、何人殺したのか覚えていない。
善人も悪人も、ヒナタにとっては関係ない。
何故なら、神の前には等しく平等なのだから。
神の命ずるままに疑いもせず、ヒナタは戦い続けた。
そして、魔物も。
神の命令は絶対で、神は決して魔物の存在を許さなかった。
ヒナタはその絶対的な力で、神の敵たる魔物を始末する。
ここにいるのは、もはや少女ではない。
神の右手──
〝法皇直属近衛師団筆頭騎士〟であり、聖騎士団長の肩書きを持つ麗しき麗人。
魔物の天敵なのだ。
*
そんなヒナタに、凶報がもたらされた。
恩師であった、井沢静江の死──
この世界でただ一人、ヒナタに親切にしてくれた人。
感傷ではなく、憎悪でもなく。
胸に去来する感情の名もわからぬままに。
──許せないわね。魔物の分際で、あの人を──
退屈な時間は終わりを告げたのだ。
聖女のような麗しい顔に凍てつくような笑みを浮かべて、彼女は行動を開始する。