「ゼー、ゼー、ゼー……」

 荒い呼吸、吐き出た息が熱い。肺が今にも焼き切れそうだ。

 にもかかわらず、俺は腕を振り乱し走り続けていた。背後から迫る、死の気配から逃れようとして。

 向かう先には生い茂る木々。奥は霞により、隠されている。

 辺りを見る余裕は無いが、豊かな森なのだろう。先程からずっと、腐葉土のキツイ匂いが鼻の中を占有していた。

「くそっ! 何で俺は森の中にいる!? そもそも、俺は一体何から逃げているんだ!?

 息継ぎの合間に無理して問うも、答えはない。そばには小姓どころか、人の気配が皆無なのだから。

 そう、ふと気がつくと俺は深い森の中を一人、駆けずり回っていたのだ。得体の知れぬ何かから、我が身を守る為に。

 やがて、その正体は知れた。静けさを切り裂く、矢羽根の音によって。

「弓! 敵か!?

 背後から迫る死の音。

 放たれた矢は道なき道をジグザグに走る俺の脇を掠めながら追い抜き、その先に立ち塞がっていた樹に当たった。

 途端に、森の中に高い音が響く。その音はまるで、木を切り倒す為におのを当てたかのようであった。

 ミシミシと音を立て、樹木が倒れる。先の考えが何者かに読まれ、顕された如く。実に、非現実的な光景であった。

「たった一矢で樹がへし折られるとか!」

 俺は両脚に更なる力を込めつつ、見たままを叫んだ。


 暫くすると、射手のであろう声が轟いた。

「……てぇー! のぶゆき待てぇー!」

 それはまるで地の底から顔を覗かせた、怪獣の如き低い唸り声であった。声の主は瞬く間に俺との距離を縮め、再び叫んだ。

「余こそはいまがわぶのゆうよしもと! 海道一の弓取りである!」

「なっ! 何で俺が今川義元に追われてるの!?

 俺の偽らざる心境である。

 そもそも、今川治部大輔義元とは尾張と接する三河だけでなく、遠江・駿河を領する大大名である。加えて、あしかが将軍家に連なる高家ですらあった。

(それ程気位の高い武将が何故俺を身一つで追いかける!?

 俺は自らの脚を千切れんばかりに回しつつ、背後を振り返った。そして、見てしまった。追い縋る今川義元の姿を。

(で、でかっ!)

 この当時としては稀な程の巨躯。それが何故か、生い茂る木々に隠される事なく、はっきりと見えたのだ。

(ひ、羆かよ! これぞ正に森の中で熊!)

 俺は心の中で悪態をついた。すると再び、矢羽根による風切り音が聞こえ始める。

(まただ! もう、すぐそこまで来てるのか!?

 だが、音は予想に反し遠ざかった。

(明後日の方向に飛んでった? さては俺を見失ったか!)

 俺は安堵し、足を僅かに緩めた。

 ところがである、

(何だと!?

 風切り音がある一点を境に再び近づいて来たのだ。まるで、ブーメランのように。俺は再び、全速力で駆け出した。

 しかしそれは、遅かった。音が走る俺の真横から聞こえ始めたからだ。

 何故? 有り得ないが、考えられる事は一つ。

「矢が水平方向に曲がるとか有り得ないだろ!」

 が、それは起きた。

 そしてその矢が、今正に俺のこめかみを貫く──

(南無三!)

 俺が覚悟を決めた、その瞬間、

「信行様!」

「信行様、危ない!」

 何者かが突如横手から現れ、走る俺を引き倒したのであった。

 勢いに乗ったまま、俺の体が地面に打ち付けられる。全身が数度大きくバウンドし、それに合わせ落ち葉が舞い上がった。

「うげっ!」

 その拍子に、濡れそぼった枯れ葉が口に入った。

 厚く垂れ込めた霞の所為だろう、真夏だと言うのに辺りの地面は濡れている。

 日頃から如何に強い日差しが降り注いでいると言えど、木々に覆われた森の奥深くにはそれが届くのは僅かであるらしい。


 頭を強かに打ち、ぼーっとする俺。その目の前に、俺を引き倒した者らが跪いた。

「……ん? あいすまぬ。頭を打った所為か、鈍くてな。さて、御主らの働きにより九死に一生を得た。礼を言おう、名を聞かせてくれぬか」

 その正体はなんと、

もうしんすけ!」

はっとりへいにございまする!」

 であった。

 俺はそんな彼らに対し、素朴な疑問を口にする。

「お、御主らはここで何をしておる!?

 今川義元に追われていることなど、すっかり忘れて。

「我らは信行様が小姓!」

「故に、死ぬ時は共に、でございまする!」

 実に見上げた忠誠心である。

 俺は嬉しさがこみ上げてきた。だからであろう、俺は彼らに対し、

「で、あるか!」

 嬉々として飛び掛かり、押し倒し、二人の顔を引き寄せ、その間に自らの顔をねじ込み、頬ずりした。

「ちょっ、の、信行様!?

「敵中にございまするぞ!?

「良いではないか! 良いではないか!」

 普段の俺からは考えられない突飛な行動。口とは裏腹に心がその振る舞いを拒絶した。

(や、やめろー! 俺にその気はなーい!)

 だが、体は止まらない。二人をきつく抱き寄せるのだ。

 やがて二人は女の声音で、

「やっ、そこは……駄目!」

 と囀り始める。

(へ、変な声で鳴くなよ!)

 側仕えする小姓らが女の声で喘ぐ。それも肌が触れ合う距離で。正に生き地獄である。

 と同時に、俺は何故か息苦しさを感じ始めた。

(い、息が出来ん……)

 まるで、何か柔らかな物で口を塞がれたかの様な。今川義元に続く、新たな命の危機、であった。

(こ、これ以上は堪らん!)

 俺は死に物狂いで首を仰け反らし、頭を振り回した。

 すると、

「の、信行様。そ、それはご無体にございまする……」

 今度は頭上から第三者の声がした。それも、聞き覚えのある……そう思ったのも束の間、視界がぐにゃりと歪んだ。

「うわっ!」

 と驚きを口にし終わる頃には、俺の目に見るも見事な女の胸が映った。

「……えっ? な、何事か!?

 これまた、俺の偽らざる心境。二人の小姓相手に正にこれから痴態が始まろうとしていた最中に、実に立派な双丘が現れたのだから。

 条件反射なのだろう、俺は当たり前の様に鷲掴みしようとした。が、ふと視線を感じる。

(……誰だ?)

 それも頭の上辺りから。おぼろげな頭を動かし視線を辿ると、そこには──

「……ちょう?」

 昨晩床を共にした女性である。

(いや、まだ今晩……なのか? 日が出ている気配はないからな)

 すると、頭が徐々に覚醒していく。

「はい、帰蝶にございまする……」

「で、あるか」

 その瞬間、俺は完全に覚醒した。

(ああ、あれは夢……だったのか……。今川の脅威に日々苛まれているとは言え、随分とまぁ酷い夢を見たものだ。しかし、本当に夢でよかった)

 俺は安堵しつつ、帰蝶から体を少し離した。

「あっ……」

 伽の合間にしか聞けぬ帰蝶の声色に俺は後ろ髪を引かれるも、体を起こす。その上で、先程見た悪夢を思い返した。

(今川義元に襲われるのは分かる。の旧来の敵であり、攻め入る素振りを見せているからな。しかし、毛利新助と服部小平太のあれは……)

 だが、その思考は途中で妨げられた。

「信行様……」

 白い腕が俺の首を搦め捕り、床の上へと引き寄せたからだ。

「如何した、帰蝶?」

 我ながら意地悪な質問である。

 しかし、帰蝶は何ら動じず答えた。

「今宵は夜が明けるまでが帰蝶のものにございましょう?」

 彼女の四肢が俺の体に絡まりつく。求められているのだ。実に男冥利に尽きると言えよう。

 俺は帰蝶に伸し掛かり、彼女の顔をまじまじと見つめる。

 すると、帰蝶は恥ずかし気に顔を反らした。俺は堪らず、ニヤリと笑った。

 そしてそのまま、徐々に体をずり下げながら、

(そう、何で毛利新助に服部小平太が夢に現れる? それに森の中ってどういう事だ?)

 先程見た夢を思い返した。

 やがて俺は、後者の疑問の答えだけは見出した。

 生い茂った丘の先で、森と土の香りの意味だけは俺は知り得たのであった。


第一章 海道一の弓取り



 のぶながとその実弟である俺との間で起きた尾張国を賭けた争い。

 その帰趨は信長の死と、その死を予期していた信長の遺言「織田信行が織田家の家督を継ぐ」により、一応の決着を見た。

 だが、それは表向きの話。実際は未だ多くの問題に家中は揺れ動いていた。

 その一つが、ながひでもりよしなりら一部信長方の重臣が「喪に服す」と称して出仕を拒んでいる事であった。

 出仕を拒む家臣の中には、史実においておけはざにおける勲功第一と伝えられる、やなひろまさも含まれている。

(おいおい……対今川義元、どーすればいいんだよ!?

 しかし、問題はそれだけではなかった。

 これは以前からだが、尾張国の西南、海東郡にある蟹江城と尾張国の南、愛智郡にある鳴海城が今川方の調略により寝返り、織田弾正忠だんじょうのじょう家と袂を分かっているのだから。


 永禄元年〔西暦一五五八年〕、七月 尾張国 城 ひょうじょうの間


「……つまり、鳴海城のやまぐちのりつぐはうつけ者と評された兄上を見限り、今川にくだった、そういう事か?」

「はい、平たく申せばその通りにございまする」

 俺の言葉に、むらさだかつが答えた。ちなみにこの男、生前の信長に内政・外交の総責任者を任される程、尾張では稀有な人材である。

 故に俺は、そのまま重用していた。それも以前と同じ待遇で、だ。

 そしてそれは、他の重臣らも同様。何故ならば、尾張織田家存亡の危機を前に、俺は家中の融和を最優先に考えたからだ。

(緊急事態だからな!)

 無論、その中には帰蝶らに代表される奥の事も含まれていた。

(緊急事態だからな!!

 当然ながら、これには俺の家老らが反対した。

 しかし、所詮は彼らも人の子。多少の金銭や褒賞をチラつかせ、実際に与えもすると、直ぐに大人しくなってくれた。

 奥に関しては別の大問題が発覚し、丸く収まったのであった。


「という事はだ、代替わりした今、再び寝返る可能性もあるのではないか? そもそも、兄上に対して思う事があったのだろう?」

「いや、さすがにそれは……」

「駄目で元々だ。それに……」

(確か史実では、桶狭間の戦の前に殺される筈。信長の書いた偽書を真に受けた今川義元により「コウモリ野郎は信用ならん」って事で)

「それにとは何でございましょう?」

「いや、別に大した事では無い」

(信長の書いた偽書の所為で、貴方達は今川義元に呼び出しを受けます。駿府に着いたら謀殺されます。……なんて言えないしなぁ……いや、待てよ?)

 俺は自らの思いつきを、改めて検討し直した。

(この話の一部、「今川義元が暗殺を謀っている」と山口教継に伝えたら如何なる? 再び織田に降る後押しにならないだろうか? いや、そこまで行かなくとも疑心暗鬼にはなるな。ならば……)

「村井貞勝、ついでにこう伝えてくれ。駿府に呼び出されたなら気を付けろとな」

「それは一体……」

「何、俺が今川義元であれば尾張侵攻の最前線を裏切り者に預けたままにはせぬ。そして、三河や遠江、駿府に適当な代替地が無いとなれば……コレよ」

 俺は手刀を首に当てた。

 村井貞勝はその仕草だけで、十分に理解したようであった。彼は頷き返し──

「では信行様、そのように取り計らいまする」

「頼む。それと大高城、沓掛城の周辺に〝山口は織田に寝返る〟と広め、他方の鳴海城周辺には〝今川義元は山口を殺し、譜代家老に城を与えるだろう〟と広めたい。それは……くらんど、お主に頼む」

「ははっ!」

 蔵人には歩き巫女との伝がある。故に、この様な策には打って付けであった。


 続いて俺は、今川方による尾張侵攻に関する報告を受けた。

 現状、今川方は愛智郡の南部、五つの城または砦を占拠しているとか。

 那古野城に近い順で挙げると、桜中村城、笠寺砦、鳴海城、大高城、それに沓掛城だ。それぞれに千から三千名前後の兵が入っているのだ。

 それに対して織田弾正忠家としては砦を築き、牽制をしていた。

 鳴海城に対しては丹下砦、善照寺砦、中島砦を築き、大高城に対しては鷲津砦、丸根砦、正光寺砦、氷上砦を築いてだ。兵糧攻めを行い、城を奪い返そうとして。

 しかし、それに呼応する形で今川義元が遂に動き出したらしく。なんと三河において、米の早刈りを命じたらしいのだ。

 その意味は一つ、

「今川が大軍を擁し、いよいよ尾張に来るのか……」

 であった。

 そもそも、今川は東のほうじょうや北のたけと同盟を結んでいる。そして、南には太平洋が広がっていた。

 つまり、彼らが攻め込むとするならば、残る西の尾張しか残されていないのだ。

「はっ! 恐らくは尾張の米が刈り取られる前に動き始めましょう。早刈りをした三河には来年分の種籾すら残さず、その全てを兵糧とする命を下したそうにございまする」

 俺はその報せをもたらした者、津々木蔵人に視線を向けた。

 彼は涼し気な切れ長の目で俺の眼差しを受け止める。実に堂々とした態度で。

 これまでと同じく、自らが織田信行第一の臣である、とばかりに。信長から引き継いだ重臣らが加わったこの場においても、なんら変わる事なく。

 何故ならば、津々木蔵人はまえとしいえの凶刃に倒れそうになった俺こと織田信行を、その身を呈して守ったからであった。

 以来、彼は武人肌の武将からも一目置かれる事になったらしい。

 ちなみにだが、俺を襲った前田利家の生家であるあら前田家はお取り潰し……にはならず、当主の蟄居、と相成った。

(何と言っても、前田としますは俺の盟友だからな)

 結果、前田としひさが荒子前田家を継ぐ事に。俺を殺そうとした前田利家は尾張からの追放扱いとした。

「で、あるか。なれば、三河から棄民が押し寄せような」

「間違いなく」

「なれば、何処かに集めておく様に。妙な輩が紛れ込んでいる可能性もあるからな。監視も怠るな」

「はっ!」

「次に、美濃は如何か?」

「その件につきましてはそれがしが」

 そう答えたのは、はやしひでさだであった。彼は先の村井貞勝と共に、内政方の一人として働いている。

 加えて彼の三人の息子らは未だに、那古野城とその城下町、および那古野大湊の普請に携わっていた。

 俺は林秀貞に先を促した。

「美濃の国主、さいとうよしたつは信行様が認められた書状と贈り物を大層喜び、同盟を結ぶ事を前向きに考えても良い、と。ただし、一つだけ問題があるとの事でございまする。それは……」

「斎藤としはる……か」

 斎藤利治とは美濃の前国主であった斎藤どうさんの忘形見の事である。

 兄の信長が斎藤義龍と斎藤道三が争った長良川の戦の後、助け置いたらしいのだ。

 何処に? 清洲城の中に。ゆくゆくは斉藤利治に美濃国を継がせようと考えて。

(唯の口実かもしれんがな)

 たく……兄上、どんだけ帰蝶が気に入らなかったんだよ。

 策が成ったら帰蝶と離縁し、きつを正室に迎える気満々だったらしいじゃないか!

 あれか? 胸の大きい女性が嫌いだったのか? 帰蝶以外は小さそうだもんな! って言うか、帰蝶以外の側室、皆妊娠してたよ! 兄上、どんだけ励んだら全員孕ませられるんだよ! まぁ、この件に関しては俺も何も言えはしないんだがな!

 俺は先頃ようやく収まった奥引き継ぎ騒動を思い返し、深いため息をついた。

(もう、女に関する揉め事はこりごりだ……)

「の、信行様?」

「ん? あ、あぁ、仕方があるまい。斎藤の兵は諦め、今川には織田単独で当たる。まぁ、考えようによっては後背は必要最小限の備えで十分、と分かったようなものよ」

「ははっ!」

「で、次は何か?」

「はっ、河原衆と山窩衆を新たに設ける事と、鳥笛に関してにございまする!」

「それと軍略奉行な」

「はっ! 目下のところ、河原衆が千、山窩衆が千二百程目処が立ちましてございまする!」

「そうか。鳥笛の方は如何か?」

「はっ! 若い者の方が覚えが良く、簡単な会話なら鳥笛で交わすまでになっておりまする!」

「でかした! その者らは大切に扱え! いずれ通信衆を設け、その中心に据える積り故にな!」

「ははっ!」

 この日の評定は昼を跨いで続けられた。

 俺が二の丸に下がったのは未の刻、現代で言うところの午後二時過ぎ、であった。



 二の丸には俺の妻子が集い、生活している。

 何故か? 織田信長と織田信行の不和の原因が互いのコミュニケーション不足にある、と考えたからだ。

「それならば」と思い、俺は吉乃らを含む妻子を皆集め、一つ屋根の下で暮らす事に決めたのだ。

 それに、近くにいてくれればわざわざ遠くにまで足を運ばずに事を済ませられるからだ。

 何が? ナニがだ。

 ただし、その話が大騒動の末に纏まった直後、最大の誤算が発覚したのだがな。

(帰蝶以外の嫁が皆妊娠とか、どんだけ織田家の遺伝子優秀なんだよ! そりゃ、父である織田のぶひでも凄かったよ? 彼が認知したのだけでも二十一人も子供がいるんだからな! 四十代前半で亡くならなかったら、もっと子供がいたんだろうけどな!)

 俺はそんな事をつらつらと考えつつ、二の丸に設けた、とある広間に向かった。

 そこには既に幾人もの先客。

 その中でも一際小さき者らが俺を目にすると声を揃え、

「ちーちーうーえー!」

 駆け寄って来た。

 俺はその舌足らずな言葉に癒しを感じつつ、腰を落として身構える。子供らがとるであろう、次なる行動を予期して。

 案の定、彼らは、

「お坊は右足! お国は左足! みょうはよじ登って顔!」

「あい!」

「あい!」

「あい!」

「掛かれや!」

「わー!」

 俺を格好の遊び相手と認識し、襲い掛かって来た。

 俺はそんな彼らに対し、

「Bring it on(かかってこいや)!」

 と言い放ち、相撲で言う所の不知火型を取る。

 子供らは「キャキャッ」とけたたましく声を出しながら、俺の足に取り付いたり、俺の太腿に足を掛けよじ登ったりした。

 やがて、リーダー格のかつまるが俺の腹を押し、広間のとある一画に向けて押し始めた。

「そいやさっ! そいやさっ!」

「お、おのれー!」

「そいやさっ! もう少しだ! そいやさっ! もう少しで落とせるぞー!」

 俺は徐々に押され始める。

 すると、俺の足や頭に抱きついているだけの子らも、

「そいやさっ!」

「そいやさっ!」

 掛け声を出し始めた。

 俺の踵が床から離れたのを、俺は感じた。

 振り返ると、俺の背後には畳八畳分もあるボールプール。

 中には丸く削った木の玉の中をくり抜き、それを布切れで包んだ玉が幾つも転がっている。

「お、落ちるー!」

 俺はよろめき、悲鳴を上げた。それを受けて、子供らは嬉しそうに笑った。

「お、おたすけー!」

 更なる悲鳴が俺の口を衝いた、その直後、

「と言うのは嘘だ!」

 腹を押す於勝丸を引き剥がし、ボールプールに投げ入れた。

「痛い!」

「知るか! 次はぼうまる、お前だ!」

 俺は次々と投げ入れ、四人全てを投げ入れると、

「Victory is mine!」

 両腕を高く掲げ、勝ち名乗りを上げる。勿論、ドヤ顔を敗者に向けて。

 すると、

「また負けたー!」

 於勝丸がボールプールに沈みつつ、悔し気に叫んだ。

 一方の奇妙丸はボールプールの縁を掴みながら、

「さっきの、ぶりっとおんいっと、ってなぁに?」

 興味津々と俺に問うた。

 俺は彼の姿勢を嬉しく思い、理解できる範囲で伝えた。

「あぁ、あれはな、南蛮の言葉の一つだ。英語だぞ」

「へー、ちちうえすごーい!」

「凄いだろう! 父さんは何でも知ってるんだぞー!」

「おしえてー! おしえてー!」

「いいぞー! ただし、鳥笛を覚えた後でな!」

「うん!」

 そして、約束を交える。ただ、俺は思い出した、

(ただ、この時代の日本に来る南蛮人はスペイン系が多いんだよなぁ……。しかも、俺の知ってるスペイン語って、「Te quiero(好きだよ)!」とか、「No puedo vivir sin ti(君なしでは生きられない)」とか、フィリピンパブで覚えたレベルなんだよなぁ……。まぁ、それはそれで良いかなぁ)

 であったと。

(と、鳥笛覚えたらだしな。ま、まだまだ時間はある。うん、頑張って思い出そう)

 それから暫くすると、広間に鳥の囀りが鳴り始めた。

「ポ、ポ、ポー、ポ。ポ、ポー、ポ、ポー、ポ。ポー、ポー、ポー、ポー」

 鳩笛だ。

 音のする方に目を向けると、鳩笛を吹いた於勝丸が奇妙丸を指差していた。

 すると、奇妙丸が鳩笛を吹き始めた。

「ポー、ポ、ポ、ポー。ポ、ポー、ポ、ポー、ポ。ポー、ポー、ポー、ポー」

 その次は於国丸。

「ポ、ポ、ポー。ポ、ポー、ポ、ポー、ポ、。ポー、ポー、ポー、ポー」

 吹き終わると、於国丸の両隣に座っていた於勝丸と奇妙丸が鼻を摘む。その動作が遅れたり、間違えた場合、罰ゲームが待っているのだ。

 そう、彼らは所謂ピンポンパンゲームをしていた。無論、これも俺が教え込んだ。

 ただ、まさかたった一月余りで通信兵と成り得るほど鳥笛を使った通信に熟達するとはな。

 子供の吸収力の良さには驚くばかりである。

 広間から中庭に目を向けると、織田の姫らがシーソーやらブランコやらの周りに集っては姦しく囀っていた。

 その姿を微笑ましそうに見守る女衆。

 母であるぜんや、俺の姉であり斎藤道三の側室でもあったお藤と後一人を除き、皆腹が膨らんでいる。


 申の刻頃、二の丸に客が訪れた。

「刻限通りだな」

「はっ! 拙僧らの本分にございますれば」

 そう口にしたのは、齢七十を超えるえいずい和尚。織田弾正忠家の菩提寺、ばんしょうの寺主であった。

 この御老体以外にも、他に客はいた。一人はせんしゅうすえただ。年若くもあっ神社の大宮司を担う男である。

 今一人は──

「この者の名はあおそく。八幡太郎義家の軍法を授かりし者にございまする」

 永瑞和尚はそう言い、僧体を俺に紹介した。

「おぉ、お主が青井意足殿か! たくげんそうおんからはかねてより軍略の大家であると聞かされておるぞ」

「それはそれは」

 俺の言葉を聞き、青井意足は嬉しそうに微笑む。目尻に皺が浮き出ていた。

 なお、沢彦宗恩は兄信長の教育係であり、信長の元服後は参謀役を務めていた者だ。それだけでなく、兄信長のやくであり、その後自刃した平手政秀の菩提寺、政秀寺の開山も務めた僧侶であった。

 史実では天下布武や岐阜も沢彦宗恩の進言により決まったらしい。つまり、重要人物の一人なのだ。

「して、我に八幡太郎義家の軍法を授けて頂けるのか?」

 俺の問いに、青井意足は申し訳なさそうな顔を作った。

(えっ? ダメなの?)

「お気を悪くされるやも知れませぬが……」

「構わぬ、理由が分かれば対処出来るでな」

「ははっ! 実は八幡太郎義家の軍法、源氏の家系にしか伝授を許されておりませぬ。然るに、織田様は……」

「うむ、確か平家の出を名乗っておる」

「はい。故にお教えは出来かねるのです」

(えーっ、そんな理由で!? まぁ、現代っ子の俺からしてみれば、今時平家とか源氏とかって……となるのだが、この時代に生きる者達にしてみれば、つい最近の出来事、だもんなぁ。致し方ないか……)

 俺は仕方なく、理解を示す。

 その上で──

「では、源氏の末裔なれば構わぬのか?」

「左様にございまする。信濃の小笠原氏や村上氏、甲斐の武田氏、駿河の今川氏、三河の吉良氏、尾張の氏、美濃の土岐氏、近江の京極氏や六角氏、常陸の佐竹氏、丹後の一色氏、若狭の若狭武田氏、因幡の山名氏、河内の畠山氏なれば。また、阿波の三好氏、出雲の尼子氏、陸奥の大崎氏、出羽の最上氏も源氏の出にございまする」

「まて、シバ? 尾張の斯波と言ったか? 斯波であるなら、斯波よしかねが三の丸におるぞ? 何やら毎日酒を浴びるほど飲み、管を巻いているらしいがな」

「そ、それは……」

 俺の取り繕う素振りも見せない言葉を前に、三名がそれぞれ絶句した。

 そんな彼らを尻目に、

「誰かある!」

「はっ!」

 俺は小姓を呼んだ。

 すると、小姓の一人が直ぐ様現れた。

「毛利新助か。御主、今すぐ斯波義銀を連れて参れ。寝ておっても構わぬ」

「ははっ!」

 彼はそれだけを発し、颯爽と部屋を後にした。

 やがて、彼は一人の若侍を連れ戻った。

 聞くところによると、今年で十八歳になるらしい。

(若っ! 家柄も良く、前途洋々、って訳だ)

 なのに目の下には隈が表れ、鼻頭は赤く、目は死んでいる。

 そう、今の彼は、

「何……用かぁ? 我は……ヒック! 尾張守護、斯波義銀であるぞ? ……ヒック」

 ただの酔っ払いであった。

「この者で、本当に構わぬのだな?」

「えっ、いや、その……」

「紛う事無き源氏の系譜ぞ? 加えて守護様で在らせられる!」

「しかし、これでは……」

「なぁに、今は酒で酔っておるだけよ。素面に戻れば……のう、斯波義銀殿?」

「なに? ここには……酒……は無いのか?」

「無い! ここには無いぞ! 然るに、青井意足殿が馳走してくれるとの事だ!」

 俺の言葉に、斯波義銀の濁った目が一瞬輝いた。

 しかしそれは、ほんの一瞬であった。もしくは、俺の気の所為、かも知れない……。

「ほ、本当かぁ? 本当に酒を飲ましてくれるのかぁ?」

「あぁ、本当だとも! のう、青井意足殿!」

「えっと、今少し……」

「源氏の系譜であれば教えるのであろう? よもや、武士に二言はござりますまい?」

「当方、僧にございますれば……」

「尚更、いかんぞ!」

 俺はニンマリと笑い、青井意足は苦笑いを俺に返す。話の行方を見守っていた千秋季忠と永瑞和尚は、呆れた顔を俺に向けていた。

「良いでしょう。条件を付けた手前、拙僧が断るのもおかしな話です。この青井意足! 斯波義銀様を見事生まれ変わらせてみせましょうぞ!」

(いや、そんな事頼んで無いって。八幡太郎義家の軍法を授けて欲しいと頼んだだけだって。情報の引き出しは、後でこっちがやるからさぁ。もっとも、このままじゃ覚えさせる事は不可能だと思われるがな!)

 俺は大いに頷き、

「では、お願いする」

 斯波義銀を一旦下がらせた。

 その後、俺は青井意足の将来被るであろう苦労を労い、多少の金子を手渡す。

 だが、この日の本題はこれではなかった。

 それは、

「さて、次なる話だが……永瑞和尚、並びに千秋季忠。三河は如何か?」

 であった。

「はい。大樹寺を含め、西三河の僧院は信行様のお考えに従う構えを見せておりまする」

 大樹寺とはまつだいら宗家の菩提寺である。俺はそこに、調略の手を伸ばしていた。

「武を手放し、知行を得た方が良いと考え始めたか!」

「はい。ですが……」

「今川義元が尾張を踏み潰そうとしている。今はまだ、おいそれと恭順の意を示す事は出来ぬ、そういう事であろう?」

「ご明察にございまする」

「ふっ、分からいでか! それよりも、もう一方の話は如何か?」

 俺の問いに答えたのは千秋季忠であった。

「今川義元の軍勢の動きに関しては万全の連絡網を築きましてございまする」

「左様か。それは此方からも流せるか?」

「無論にございまする」

「三河だけか?」

「否。日の本の津々浦々までにございまする」

「で、あるか」

 俺は思わず破顔した。

 その顔が余程酷かったのだろう、

「如何致しましたか、信行様」

 青井意足が気遣わしげに問うてきた。

「はははっ! いや、何、これからは楽しくなると思うてな!」

 俺は声を立てて笑った。

(全国津々浦々、か。試しに……)

「千秋季忠」

「はっ!」

「今川に関わりの無き国を選び、その地の国人衆に対しこう伝えよ〝今川義元は尾張に攻め入り死ぬ〟とな」

「そ、それは……」

「なに、ちょっとした悪巧みよ。誰ぞ巫女を立て、その者にお告げがあった事に致せ」

「しかし……」

「安心せい。所詮は、当たるも八卦、当たらぬも八卦、だ。然るに、良く当たると評判になった暁には……」

「知ろうとする者が大勢現れるでしょうなぁ」

 最後の言葉は青井意足が述べた物だ。

「その通りだ。日の本中の者らが知りたがろう。そうなれば……いずれは大物が釣れるやも知れぬぞ」

 俺は再び破顔する。

「ふふふっ、信行様もお人が悪い」

 この時、俺以外の三人も等しく、大いに破顔したのであった。