1
ふと気が付くと、男は仰向けに倒れていた。
視界には抜けるような青空が広がっており、手を伸ばせば届きそうですらある。
見事なまでの、晴天であった。
そんなことが、思考を過ったせいだろうか。
何気なく男は実際に伸ばしてみようと思い……だが、失敗した。
何故だか、腕が動かなかったのだ。
それをどういうことかと、疑問に思い──
『──見事だ、人間』
不意に聞こえた声に視線を向ければ、そこにあったのは巨大な山であった。
否、それはそうとしか思えないほどに巨大な何かである。
そして男はそれを見て、ようやく思い出した。
自分が何をしていたのかを……それと、どうしてこんなことになっているのかを、だ。
「ふむ……どうやら我輩の勝ちのようであるな」
『……そうだな。そちらは四肢の一つすらも欠けてはいないが、こちらはご覧の有様だ。間違いなく、貴様の勝ちだろう』
とはいえ、その巨大なものが喋っているわけではない。
うつ伏せに寝転がっているようにも見えるそれから少しだけ離れた場所に、小さなものが置物の如く無造作に転がっている。
声の発信源は、それだ。
山のようにも見えていたものは胴体であり、小さなものはその頭部であった。
もっともそれはあくまでも相対的な話であって、その小さいものですら、男よりも遥かに大きいのだが。
そんなものを眺めながら、男は一つ溜息を吐き出した。
「……まあ正直なところ、あまり勝ったという実感はないのであるがな。貴様死んでおらんし。というか、そんな状態でも喋れるとか、一体どうなっているのだ?」
『ふん……我は龍だぞ? さらにはその中でも、頂点に立つ存在だ。こんな姿になったところで、そう簡単には死なぬ。そしてそもそも我は声帯を震わせて貴様に語りかけているわけではないからな。その程度のことは造作もない』
そう、それは龍であった。
誇張された紛い物や、それを模して作られた偽物などではない。
本物の、現存している数少ない神秘の一つだ。
空を羽ばたけばその雄大さに人は目を奪われ、また恐怖を抱く。
絶望と厄災、最強の象徴である。
そのでたらめっぷりは、首を斬り落とされても未だ死んでいないあたり、よく分かるというものだろう。
「まったく……これだから超常の存在は困るのだ。色々と非常識に過ぎる。首を狩られたら素直に死んでおけというのである」
『そんな我を、人の身で殺してみせた貴様が言うか? 非常識っぷりでは我ですら貴様には及ばんよ。普通であれば、我を殺すなど勿論のこと、その刃を届かせることすら不可能なのだからな』
「まあだからこそ、我輩は貴様に挑んだのであるがな。我輩の剣は果たして至れたのかを、知るために」
そう、龍は人に厄災をもたらす存在ではあるが、男は別にそれが理由で戦いを挑んだわけではなかった。
最悪の中の最悪。
龍の中の龍。
人によっては龍神などと呼ぶそれに向かっていったのは、単純に、戦ってみたいと、試してみたいと思ったからである。
自分が鍛え、身につけた剣の腕。
世界最強と呼ばれ、その自負もあるそれが、果たして通用するのか。
自分は、剣の頂へと辿り着くことが出来たのか。
それを問い質し、証明するための戦いが、これであったのだ。
『そしてその結果は、既に出た。貴様の剣は、とうに我々の域に及んでいる。人の身で、よくぞそこまで鍛え上げたものだ』
「……そうか。我輩は、ついに剣の頂へと辿り着くことが出来たのであるか」
『うむ……それはこの我が認めよう。間違いなく、貴様は辿り着いた。だからこそ、我を殺し得たのだ』
その言葉に、全てが報われた気がした。
ひたすらそればかりに費やした人生であったのだ。
ただ剣のことのみを考え、その腕を磨くためだけに駆け抜けたのである。
そこに後悔はない。
あるわけがない。
自分は望んだことを全力で行い、そして成し遂げたのだ。
後悔など、しようはずもなかった。
『そして故にこそ、再度言おう。見事である、と』
「……我輩は正直貴様を殺したこと自体はどうでもいいのであるがな」
『ふん……我を殺したのは、あくまでも証明するためだけ、か。もっともだからこそ、貴様はそこに辿り着けたのであろうし……それだけで、我も満足だ。──が』
そこまで言ったところで、不意に龍がその雰囲気を変えた。
龍という神秘を体現したかの如きそれは、なるほど神と言われれば頷きかねないほどのものである。
そしてその中で、それは言った。
『ここまで満足したというのに、何もせぬというのは我の沽券に関わる。そこで、貴様に一つ問おう。何か望みはないか?』
「……言っている意味が分からぬのであるが? 殺した相手に望みを聞くとか、マゾなのであるか? それとも、聞いておきながら、聞いただけだとか言い出す性悪であるか?」
『だから言っただろう、沽券に関わる、とな。我はこれでも神を名乗っているのでな。自分だけが満足し何もせんというのは出来んのだ』
「……そう言われてもであるな。剣の頂へと辿り着いた以上は何も望むものなどないし……そもそも、望んだところで無意味であろう。我輩はどうせ、今すぐにでも死ぬ身である」
それは確定した未来であった。
腕が動かないということは、そういうことだ。
文字通りの意味で、全てを以て打倒したのである。
そのまま命が尽きるのは道理であったし、それも含めて男は何一つ後悔してはいないのだ。
『貴様が望むのであれば、その身体に再び命を吹き込むことも可能だが? まあ、貴様はそれを望むまいがな』
「まあ、そうであるな。望みを果たした以上は、既に未練など──」
瞬間、脳裏に一つだけ過ったことがあった。
未練というのであれば、男がたった一つだけ思い浮かべる、それであった。
もっとも、男に家族は既になく、友人や恋人などを作ることはなかった。
だからそれは、人に対してのものではなく……かつて一度だけ覚えた羨望であり、憧憬だ。
──魔法。
既にこの世界からは失われたと言われているそれを、使ってみたかった。
それが男の、唯一の心残りだ。
とはいえ、それを口にすることがなかったのは、無意味だからである。
それは確かに未練ではあったが、男は剣の道を選んだのだ。
ならば、たとえここで命を永らえることがあったとしても、その道を新たに探すことはないのである。
まあ、或いは、生まれ変わるようなことでもあれば話はまた別ではあるが……それこそ、口に出したところで無意味だろう。
だから、何もいらない。
この満足だけを胸に、ひっそりとこの生を、ここで終わらせる。
そう答えようとし、しかし既にそれは出来ないことを悟った。
男の身体は、とうに限界を超えていたのである。
いつ命の灯火が消えてもおかしくはなく……それがついに訪れたと、そういうことであった。
だが龍も、満足そうな男の顔を見れば理解するだろう。
そう思って──
『……ふむ、それが貴様の願いか。了解した。神としての我を以て、必ずや叶えてみせよう』
最後に何かを言われた気がするが、それが意識に上ることはなく。
男は、そのままその生涯に幕を下ろしたのであった。
2
──酷く長い夢を見た。
それは一人の男の夢だ。
剣を握り、その頂を夢見、ひたすらに目指しては剣豪となり、やがては剣聖、果てには剣神などと呼ばれるまでに至り……そうして望んだ場所に辿り着いたことで、満足しながら死んでいった。
そんな男の夢であった。
「……ふむ」
見慣れた天井を眺め、そんなたった今見たばかりの夢──否、『自身の前世の記憶』を思い返しながら、ソーマは一つ頷く。
不意に思い出した記憶によって、以前から時折襲われていた違和感に納得がいったからだ。
生まれ変わり、あるいは転生。
まあどちらも同じ意味ではあるが、つまりソーマの身に起こったことというのは、そういうことらしかった。
誰かに聞かれたら荒唐無稽などと言われそうではあるが、それが事実なのだからどうしようもないだろう。
妄想でもなければ勘違いでもない。
ソーマは確かに、転生者という存在なのだ。
「……ま、どうでもいいことであるがな」
しかしそこまで考えたところで、ソーマはその思考を切って捨てた。
理由としては、今口にした通り。
そんなことは、どうでもよかったからだ。
そもそも、思い出したという言葉の通り、知らなかったものを知ったというよりは、意識していなかったことを、そういえばそうだったと思い出したような感覚なのである。
意識していなかっただけで、今までのソーマの行動と思考には確かに前世のことが根底にあるのだ。
つまり思い出したところで何が変わるというわけでもなく、だからこそどうでもいいのである。
そして何よりも、今日はソーマの六歳の誕生日なのだ。
今日のことを知ってから、この日が来るのをどれほど待ちわびたか。
それを考えれば、前世のことなど心底どうでもよかった。
「さて、と……」
天井から視線を外し、窓の外へと向ければ、とうに朝日は昇っている。
屋敷の者達はとうに動き出しているであろうし、それは母達も同じだろう。
ならば、これ以上待つ必要はない。
「……よし」
跳ね起きるように上半身を起こしたソーマは、そのまま掛け布団をどかすと、ベッドから降りる。
軽く腕を伸ばし……これからのことを思い、自然と口元が緩んだ。
「ふむ……さて、我輩は果たしてどんなスキルを持ち、そして覚えることが出来るのであろうな……」
そうして、これから待っているそれ──スキル鑑定のことを考えながら、足取りも軽く、その無駄に広い部屋を後にするのであった。
前世のソーマから見た場合、この世界はいわゆる異世界というものに該当する。
そう断言出来るのには幾つか理由があるのだが……その最たるものと言えば、やはりスキルというものだろう。
スキルとは簡単に言ってしまえば、才能を可視化したものだと言われている。
それが本当に正しいのかは分からないが、それらしいものであるのは確実であり……要するに、その者が持つスキルを知れば、どんなことが出来、どんなことを得意とするのかが一目で分かるということだ。
とはいえ普通であれば、他人どころか自分の持つスキルすらも知る術はない。
基本的にそれを知るには、スキル鑑定というスキルを持つ者に見てもらわなければならないのだ。
一応特定の魔導具を使用することでも、自分の持つスキルを知ることは出来るが、あまりそれは推奨されていない。
別に何らかの副作用があるなどというわけではなく……むしろ逆だ。
スキル鑑定を持つ者に見てもらうことで、副次的な効果が発生するのである。
というのも、スキル鑑定の効果は現在だけではなく、未来にも作用するのだ。
分かりやすく言えば、今覚えているものだけではなく、将来覚えることが可能なスキルすらも知ることが出来る、ということであった。
スキルが才能を可視化したものだと認識されているのは、こういったことも要因の一つだ。
つまりは、スキル鑑定で見てもらうことで、自分が今どんなことが出来、将来どんなことが出来るようになるのか。
それが分かってしまうということだからだ。
まあ、分かってしまう、などとは言ったものの、実際これを否定的に捉えている者は少ない。
まったくないわけではないが、それが常識な世界であるし、何よりもそれを知ることで自身の目指す先というものが分かるのだ。
基本的には、スキルはそれを覚えていると知らなくとも使うことが可能だが、知らなくては当然のように自分に何の才能があるのかは分からない。
自身に最適な未来を、無駄なく進められるということもあり、大抵の場合は歓迎されていた。
ただ当然のことながら、それを知るのは早ければ早いほどに良いとされている。
それはそうだろう。
例えば剣士を目指しているとして、そのために必要な剣術スキルを覚える可能性がないとなれば、それまでの時間はまったくの無駄となってしまうのだ。
それを知っていれば目指さなかっただろうことを考えれば、早すぎるということはない。
もっともそれでも、実際にスキル鑑定を受けるのは、大抵どれだけ早くとも六歳以降である。
勿論これにも理由があり、それ以前だと未来が確定しないとされているからだ。
これは実際にそういう研究結果が出ており、生まれた直後と四歳頃ではスキル鑑定の結果がまったく異なるものだったこともあったらしい。
大体それが確定するのが四歳前後、遅くとも五歳頃には確定するとされているが、念のため六歳頃にするのが最善とされているのだ。
ソーマが六歳の誕生日にスキル鑑定を受けることとなっているのも、それが理由であった。
そしてスキル鑑定を受けるということは、同時にほぼ自分の将来が確定するということでもある。
複数の道を選択出来るほどにスキルが充実していることなど、滅多にないからだ。
むしろ一つ二つしかないということの方が余程多く、五個も覚えることが出来れば優秀、二桁もあれば天才と呼ばれる。
悩むまでもない、というのが普通なのだ。
そういったこともあり、スキル鑑定を受けるのは不安に思う者も少なくはないのだが……ソーマに関しては、改めて言うまでもなく楽しみに待っていた方である。
これは別に転生者だから才能豊かに違いないと思っているとか、そういうことではない。
単純に、ソーマにとってどんなスキルを覚えられるのかなどは関係がないため、どんなものであろうとも他人事のように楽しめるからだ。
それは将来を諦めているからではなく、実際のところは、その逆。
どんなスキルを覚えられようと、将来目指す先はとうに決めているからである。
というのも、確かにどんなスキルを覚えることが出来るのかは、スキル鑑定を受けなければ分からないが、幾つか例外が存在するからだ。
それが、基礎スキルと呼ばれるものである。
剣術や槍術などの武術系スキル六種と、魔法を使用するのに必須な魔導スキル。
これらのものは、下級という、同スキルの中で最も等級が低いものに限るが、それであれば大半の者は覚えることが出来るのだ。
実際少なくとも、武術系スキルのどれか一つと魔導スキルであれば、覚えることが出来ない者の方が少ないほどであり、前述の優秀や天才と呼ばれる者達のスキル数にこれらが含まれないことからも、前提として覚えられて当たり前だと考えられているということがよく分かるだろう。
つまり、それらを覚えることが出来ないかもしれない、などと考える必要はない。そしてソーマが目指しているものというのは魔導士。
もっと言えば、魔法を使うということであった。
そのため、どんなものが使えるようになろうと、どうでもよかったのである。
ソーマが楽しみにしていたのは、単にその日が来れば、ようやく魔法を覚えるために動き出せるからであり──だから。
それが叶わないなんて、これっぽっちも想像していなかったのだ。
「……は?」
呆然とした声が、周囲に響く。
それはソーマの口から漏れたものであり、その顔に浮かぶのはそれと同じものだ。
呆然、困惑、驚愕。
その全てがない交ぜとなったような、何とも言えない感情を抱きながら……ソーマは、眼前にいる母へと、再度問いかけた。
「……今、何と言ったのであるか、母上?」
母がこんな時に冗談を言う性格ではないということは分かっていたが、それでも、冗談と言って欲しかった。
だが一度視線をそらした母は、ゆっくりと息を吐き出すと、ソーマへと真っ直ぐに視線を向けてくる。
そして。
「……ええ、それでは、もう一度だけ言いましょう。スキル鑑定の結果、あなたは武術系スキルや魔導スキルを含めても、一つもスキルを覚えることはない……何の才能もないということが、発覚しました」
毅然とした顔で、そんなことを告げてきたのであった。