「うあー」

 間の抜けた声が出てしまった。

 体の中に溜まった熱を吐き出し冷たい空気を取り込んで、何度も繰り返して呼吸を整えるのに集中する。

 肌を刺すような冷気も、今は火照った体に心地いい。気温は完全に冬のそれで、乾いた風が葉の落ちた枝を揺らしているのをぼんやりと眺めつつ呟く。

「ダメだ。ちっとも当たらない……」

 何があったのかと言えば、いつもの師匠との特訓が終わったところだ。

 年末に師匠の不可視の歩法を見切った事で、戦術の幅が格段に広がり、とうとう一撃入れる事もできるのでは? なんて期待していた去年の僕。それ、幻想だから。

「物理法則が、狂ってる」

 だってね、初撃をかわしたと思ったら、瞬きする間もなく追撃が来るんだよ?

 退すさっているところを蹴り飛ばされて、僕は派手に空中を舞う結果になった。途中で軽く意識が飛んでいたので確証はないけど、多分側転みたいに一回転していたと思う。

 攻撃後の隙がないなんてレベルじゃない。二撃目が回避中の僕に追いつくとかどうなってるの?

 結局、その後は同じ展開に。僕が立ち上がる前にラムズがやられ、リエナが投げられ、助勢に入ろうとした僕は間に合わずに単身で挑まざるを得ず、あえなく撃沈。各個撃破が繰り返され、僕ら三人が立てなくなって終了。

「きっちー」

 隣からラムズがぼやく声が聞こえた。

 同年代の中ではかなり大柄な体が大の字になって横たわっている。僕と同じく呼吸を落ち着かせるのに精一杯みたいだ。

 あざだらけの有様で、痛みもかなりあるけど、実際に体のどこかが壊された感じはしない。どうして人の事がそんなにわかるかと言えば、僕自身が全く同じ状況だからだ。

「だいじょうぶー?」

「そっちこそ。いてて。今日も一撃入れられなかったな」

 でも、結果は同じなものの、始めた当初とは比べ物にならないよ。

 全滅するまで倍は時間が掛かるようになったし、呼吸が落ち着くのも早くなったから。

 ……うん。きっと成長はしている。主に頑丈さとか、持久力的に。

「ん」

 僕らの近くではリエナが槍を素振りしている。

 彼女の成長は見ていてわかる。元から速かった突きが更に速度を増しているのだ。なんというか、無駄が減ったというか、綺麗になったというか、そう、洗練されたというべきか。

 長い黒髪を大きく揺らして、でも、端整な顔を歪める事なく、淡々と素振りを繰り返す様子に苦しそうな雰囲気はない。一緒に訓練でやられたはずなのに、もう回復してしまったらしい。

 猫耳としっぽもきりっと立ち、気合十分の様子。

「リエナ、先に汗を拭いた方がいいよ」

 僕も段々と汗が冷えて、体温が奪われてきた。

 用意していた手拭いを放ると、リエナは器用に槍で巻き取って回収する。

「……シズも」

「大丈夫だから。僕のもあるから。って、拭いてくれなくても大丈夫だって!」

 ちょっと! それ今リエナが使ったやつだよね!? 手拭いから良い匂いしてるから! 僕の理性を試さないで!

 僕の汗を拭おうとするリエナを止めて、隣で小さく笑っているラムズを睨む。

「何を見物しているのかな、ラムズ君?」

「いやいや、年も変わったのに進展ねえな、お前ら。いや、楽しくていいんだけどよ」

「そっか。そっちも楽しそうだね?」

 僕がにこやかに視線で彼の背後を示す。そこには小柄な後輩がスタンバイしていた。

 キラキラした目をラムズに固定して、手には手拭いと水筒。

「ラムズ先輩、お疲れ様です! これ、どうぞ!」

「ココ……」

 まるでマネージャーみたいだ。

 小動物的な細やかながらも豊富な運動量を発揮して、ラムズにあれこれとお世話しようとしている。コップに水を汲んで、汗を拭いて、回復の魔造紙を使ってと、実に甲斐甲斐しい。

「そうしてると、なんだか夫婦みたいだね」

「ふ、夫婦! そんな、シズ先輩! ふふ夫婦なんて、そんな! てへへ……」

 パタパタと手を振り、ラムズをチラチラと見上げ、顔を真っ赤に染めながらも、まんざらでもないどころか実に嬉しそうな笑みを浮かべているココ。

 そんな彼女に対して、最近のラムズは誤魔化したりしない。悟りを開いたみたいななぎの表情で微笑んで、どこか遠くを見つめたまま、されるがままにされている。

 そんな二人をにんまりと眺めていると、

「息が整ったんなら、じゃれる前に反省しろ」

 ゴツン、と頭頂部に衝撃が走った。

 頭を押さえながら見上げると、そこには青髪の樹妖精の姿。

「師匠。痛いですよ」

「なら、殴られないように動け、チビ」

 白木の杖を片手に、香木の煙を吐き出す師匠。

 ぐう。最近は少し拳骨の割合も減ってきてるかなって思ってたんだけど、早速やってしまった。

 ここで文句ばかり口にすれば二撃目が来るので、僕は慌てて身繕いして立ち上がる。

 組手をした後は必ず反省会がある。何がいけなかったか、自分で見つけなくてはならない。

「やっぱり、各個撃破になったらどうしようもないです」

「そうだな。数の利を活かすのは正しい。で?」

「でも、師匠もその利点を潰そうと動きます。だから、僕たちはそれをどうにかしないといけないって思うんですけど」

「で、対策は?」

「誰かが師匠の動きを止めて、その間に対処できれば……」

 だけど、それができない。

 僕は今日のように撃沈。一番タフなラムズは投げ飛ばされて行動不能にされ、最も師匠に対抗できるリエナに至っては足止めに入れない。何故なら、師匠が僕やラムズを間に挟むようにして移動するせいだ。おかげで、リエナは大回りする形になって、その間に僕らはやられてしまう。

 だから、配役として僕が時間を稼ぐのが最善だと思う。問題は僕にそれだけの腕がない点。

「あれを躱せたら、いけるって思ってたんだけどなあ」

「避け方がなってねえんだよ。悠長に飛び跳ねてりゃあ、撃墜されるに決まってる」

 いや、普通の人間はあんな連撃できないと思います。

 そんな事を思っていたのが見ただけでわかったのか、再び師匠の拳骨が落ちてきた。

「あほう。ちっと腕が立つ奴なら攻撃は流れで構成する。一つ避けてホッとしてりゃあ押し流されんだ。そこの猫でもできんぞ、あれぐらいならな。いいか? 相手の正体が知れねえなら別だが、そうでもねえならギリギリで躱せ。空に逃げんな。地を駆けろ」

 なるほど。

 確かに必死で避けようとしていたから派手にジャンプしていた。空中にいては追撃に対処できない。

「けど、ギリギリって。怖いですよ」

 動きを見切ったと言っても辛うじてなのだ。そこから放たれる拳打に至っては勘で避けているに近い。毎度毎度、師匠の拳が通過する度に風圧が顔を撫でるもんだから、寿命が縮む思いをしているというのに。そんな攻撃を頼りない勘に任せてギリギリ回避とか、博打過ぎる。少しでも距離を取ろうとするのは当然じゃなかろうか。

「あほう」

 三度目の拳骨。

 くおう。何度くらっても痛いなあ、これ。というか、回数が減ったと思ったらこれかあ。

「結局のところ、手前はその辺が足りねえんだよ。一年以上積み上げてきたんだ。いい加減、なんとかしやがれ」

「足りないって、何がですか?」

「手前で考えろ。自覚しねえと意味がねえんだ」

 この件に関してヒントはないらしい。

 僕が考え込んでいる間にリエナとラムズも反省会という名の武技指導が進んでいく。あちらは会話中に攻撃が飛んでくるのを防げという無茶振り仕様なので、本気で気が抜けない。

 足りない、かあ。なんだろう。経験? 覚悟? 度胸? 確かにどれも足りていないと思うけど、それだけでどうにかなるものなのかな。

 というか、足りない? こんな会話をずいぶん前にもしたような気が……。

「あ、シズ。もう終わったの?」

 いつの事だっけ。前といっても何年も前の話じゃない。そうだ。言われたのは師匠からだ。

「リエナさんたちはもう少しですわね。ココさん、魔造紙は足りてますの?」

 となると、この一年前後の出来事か。

「はい。回復の魔造紙は色々と揃えてあります。あ、でも、体力回復はそろそろ補充しようと思っていたんだっけ」

 千年祭? じゃない。

 凝縮魔法の実験? じゃない。

「シズ、どうしたの? 聞こえてる?」

「でしたら、わたくしも手伝いますわ。あちらもまだ時間が掛かるようですし」

「ありがとうございます! クレア先輩、私の筆記を見てもらってもいいですか?」

 だったら、大魔法競技会かな?

 うーん。あの辺りはかなり師匠に怒られたから心当たりが多過ぎる。

 それに弟子入り直後も怪しいぞ。本当に拳骨をくらいまくっていたから。さっきも思ったけど、あの頃と比べると、本当に最近は拳骨の頻度が下がったよな。いや、今日は別として。

 段々と思考が別の方向に走り出した頃、

「シズー。返事してよー。うーん……えい」

「ひゃっほーい!」

 首筋にひやりとした感覚が走って、思わず奇声を上げてしまった。

 その感触が人の手のそれだと気付いて、反射的に体が動いた。訓練の影響か、相手を迅速に確保する方向に。

「何者ー!?

 抱きしめるようにして捕獲。危うく圧し潰してしまいそうな華奢な感覚に再度驚いて、ようやく理性が状況に追いついた。

 見下ろせば僕の腕の中に美少女──に見える親友、ルネがいた。

 息苦しいのか、赤い顔で僕を見上げるルネ。熱い吐息が首筋に掛かって、驚きとは別の理由で復活した理性が吹っ飛びそう。

「あれ? ルネ?」

「シズ……その、ちょっと、痛いよ?」

「ご、ごめん!」

 慌ててルネを解放する。

 思い返せば考え事に夢中になっていた間、誰かに話しかけられていた気がする。

 見回せばクレアの姿もあり、大貴族の令嬢らしく口元を手で隠しつつ驚いていた。

 リエナは不満そうにしっぽを振り、ラムズは肩をすくめていて、そして、師匠の姿が……ない?

「何をぼうっと突っ立ってやがった。身内相手でも間合いの内ぐらい把握しろ。おまけに、不意打たれて抱きつくとかどういう神経してんだ」

 いた。僕の背後に。拳骨を握り締めて。

「この、どあほう!」

 ド級の拳骨が落ちました。



 いったああああぁぁぁ! これいったい! すごい痛い! え? 頭、割れたんじゃないの、これ?

 師匠は舌打ちを一つ残して、そのまま去っていってしまう。

「ごめんね。あんなに驚くって思わなくて」

「ううん。こっちこそ、気が付かなくてごめん」

「大丈夫ですの? すごい音がしていましたけど……シズ?」

 心配そうに声を掛けてきたクレアが途中で戸惑いだす。

 確かに拳骨は痛かったけど、加減の仕方で師匠が間違えるわけがない。痛いけど。拳骨されたのも僕の失態が原因だから、怒りとかもない。痛いけど。

 いつも通りだと思うけど、何かあるだろうか?

「その、なんだか、嬉しそう、ですわ?」

「うん。口元が笑ってる」

 複雑そうに指摘するクレアと、無邪気に事実を口にするルネ。そして、様子を見ていたリエナやラムズたちも同じ反応。

 どうやら僕は拳骨をくらって嬉しそうにしているらしい。そりゃあ、心配もされる。拳骨され過ぎておかしくなったのか、妙な性癖でも芽生えたのかと疑われても仕方ない。

「いやいや、そうじゃないから」

 もしも、笑っていたのだとすれば。

 昔の事を思い出して、拳骨の頻度が下がっているのを実感して、それが僕の成長の証だと思うのと同時に、師匠に構ってもらう事が減ったように感じられて。

 でも、こうして僕が失敗したらちゃんと叱ってもらえるんだってわかって、それが嬉しかったのかもしれない。

 我ながら歪んだ事を思ったものだ。

「シズ。叩かれたい?」

「え?」

 内心で苦笑していると、目の前には槍を振りかぶったリエナがいた。猫耳としっぽは興奮して天を差し、無表情ながらもその瞳には情熱──というか情念がグルグルと渦巻いている。

 正直、嫌な予感しかしない。

 しないけど、このまま放置できる場面でもないので、そっと──不機嫌な猫の頭を撫でるぐらいそっと、声を掛けた。

「リエナ、さん?」

「ん。シズ、叩かれたい。叩かれると、喜ぶ。わたし、頑張る」

 何故に片言? というか、その振りかぶった槍の、意味は……。

「ん!」

 やっぱり、ドМ認定&強制ご褒美ですかー!?

 振り下ろされた槍を全力で回避。

 しかし、リエナは止まる気配がない。流れるような動作で二撃、三撃と連続して槍を振るってくる。本当だ! 師匠の言った通りリエナも連撃で攻めてくるよ!

「リエナ! 待って! 誤解だから!」

「ん! ん! んんっ!」

 僕に喜んでもらいたい一心で、あるいは殴って僕を正気に返すつもりなのか。

 そのままリエナの連撃は加速していき、未熟な僕は躱しきれなくなり、一分もしない内に撃沈する事になるのだった。

 年明けから一ヶ月過ぎて、僕の日常は平穏に回っていた。