序章 老いた剣聖は若返り
【若返る剣聖】
「理事長がおっしゃっていた伝説の剣聖、本当にいるのかしら? 自信がなくなってきたわ」
青々とした草木の香りと、時おり耳にする動物のけたたましい鳴き声。
それは辺りのうす暗さと相まると、どこか不気味ささえ感じられた。しかし、そんな人里を離れた山奥に立ち込める朝霧が、山道を歩くネネ=ベルベッタの、腰まである一つ結わえの髪を潤わせた。その毛色たる黄緑色を、艶やかに映えさせてもいた。
黄色い瞳と二重まぶたが組み合わさる、ややたれた目が印象的な、童顔の女。
二十二歳という実年齢よりも、五歳ほど下に勘違いされてしまいがちなのが、近頃の悩みだった。普段から、勤め先の端正なセットアップを着崩して、特に胸元の露出度を高めているのは、少しでも大人っぽく見られたいがため。とはいえ、女性としての発育もそれなりであるため、無自覚に自分を貞操観念がゆるい未成年女子だと主張する──風紀の危うさを感じさせてしかいない。
これらも裏を返せば、伝統ある制服や腰から下げる細身の剣に、相応しくあれるようにと、背伸びの仕方を間違えているのはともかく、前向きかつ健気な心がけがあればこそなのだ。
彼女の目的は、この山に住んでいるらしい、一人の男に会うことである。
今年で九十歳になる老人は、名前をアラン=スミシィといった。七十年前、連邦と帝国の戦争が、まだ熱戦状態にあった時代。彼は数多の戦地におもむき、連邦の劣勢を単騎でくつがえす活躍をしていた騎士だった。
刀と呼ばれる片刃の剣を一振りすれば、遠方にあった敵陣の隊列に死体の道ができた。
平原の戦場において、100メィダ(※100メートル)の距離をわずか三回の跳躍で越えた。
敵意には異常に敏感で、差し向けられた刺客の存在に気がつくと、必ず先手をとった。
戦時中に受けた傷は、小さな切り傷を一つだけだった。
通称を『剣聖』として、このような逸話がある。
ただし、彼が表舞台より消息を絶ち、七十年という年月が経つ中で『現実味がないもの』『戦時中の誇張表現』とされるようになると、これらの事実は人々の記憶から風化していき、いつしか存在すら伝説とされるようになった。
「かなり時間も経ってるのに、人の気配なんてまったく感じられないんだけど……私って血迷ってるのかな? むかしから伝説とか迷信とか、信じちゃう方なんだよなぁ」
アランの存在に半信半疑だと、思わず呟いた言葉どおりの憂いに肩を落とした。
わけあって、ネネは並々ならず強い騎士を探さなければならない。だから、彼の当時を知る人物に聞かされたアランという名前を頼りにし、かれこれ半年近くも行方を追ってきた。つい最近になって新しい所在の噂を聞いたところ、それがどうやらこの山らしいのだ。
かくして、意気揚々と入山したのは良かったが、未だ一向に見つかる気配がない。そもそも『この山にいる』という噂をあてに、進む方角もあてずっぽうで、本当にいるのかさえ怪しい男を探す──などというのは、いわば行き当たりばったりの無計画。
そうも心もとないのに、数時間も勾配を登れば、流石に肉体的にも精神的にも疲労があって然り。であれば「いっそのこと諦めて帰っちゃおうかなぁ」と意思が揺らぐような言葉まで、口走る始末になろうものだろう。
山奥の開けた場所に、掘っ建て小屋を見つけたのは、ちょうどそんな時である。
「あれは……生活感がある。きっと誰かがいるに違いないわ。噂は本当だったのかしら?」
期待に胸を膨らませ、たちまち軽くなった足取りのまま、辺りの様子を調べてまわる。
狩猟によって食料を調達しているのか、軒にはさばいた肉が吊るされていた。付近で滝の音がすることから、大人一人がおさまりそうな水瓶には、清水が満ちているに違いない。横の畑は見るからに土が痩せているが、どうにか工夫して野菜を育てているらしい。
あれこれと物色がてらに憶測しながら、しきりに耳にする甲高い音をたどり、ネネは小屋の裏手に薪割りをしている男のうしろ姿を見つけた。
「ふむ……客人を招いた覚えはないが?」
並みの壮年のそれと見える姿とは裏腹に、どこか凄みのある背中。
そこに声をかけるつもりでいて、逆に見向きもされずに尋ねられる。ネネは驚くあまりに、怯んでしまった。それでも、ようやくそれらしい人物に会えたことに嬉々とし、気持ちを切り替えた。
「アラン=スミシィさんで、いらっしゃいますか?」
「いかにも、私はアランだが、あなたは?」
「突然の訪問をお許しください。中立国アイゼオンの平和管理局から参りました、ネネと申します」
長い白髪を揺らして振り返った男の顔は、ひどくしわだらけに見えた。
反して、首から下の身体は、着物ごしにも体力がみなぎっているさまを感じさせる。目も隠れそうな長いまゆ毛、口周りには長い髭──容姿こそ年老いたものであるが、まだ肉体は壮年と同等なものが維持されているようだった。
「はて、管理局のお嬢さんが、私に何用か?」
「アランさんにお貸しいただきたいのです。かつて歴代最強の剣聖と謳われた、そのお力を」
「……まずは事情から、お聞きしよう」
薪割りを終えたアランに連れられ、ネネはのろのろと掘っ建て小屋に入った。
外観からは想像もつかないだろう、きれいな屋内。あがり框のわきに並べられた履物が、土足厳禁であることを暗示する。囲炉裏がそなわる板張りの座敷には、質素なござが敷かれていた。文明的でない極貧の生活様式にも思えるが、どことなく居心地がいい印象である。
「では聞こうかな」
アランが二人分の茶を用意してから、落ちついて話をする。
「開戦から数えて、おおよそ二百年。西のカルメッツァ帝国と東のメオルティーダ連邦が、七十年前から停戦状態にあるのは、ご存じのことかと思います」
「……人間が死にすぎた。それで連邦も帝国も、ともに停戦を望んだ」
「はい。拡大しすぎた軍事力同士の衝突で……中立の立場にあったアイゼオンの仲裁で、停戦状態に入り、後々も互いの軍事力は拮抗していました。これが七十年と続いている要因になっています」
「停戦協定後といえば、私はすぐに隠居したから、その辺りはわからぬな。ほとほと戦というものに愛想がつきてしまった……それで?」
「アイゼオンは、来年にもその均衡が崩れるのではないかと、そう懸念しています。連邦の兵力は、ここ十年間にわたって、衰退の一途をたどっているのです」
「もし、このまま連邦の兵力が弱まり続けたとすれば、帝国は協定を反故にして攻め入ってくると。七十年、すでに両勢力は回復しきっているのだろうが、そこに差が生じてしまったか」
「アイゼオンは停戦の維持を望んでいるのです。そして、叶うのならばこのまま和平をと……。もしも開戦してしまえば、また多くの人が死にます。ですから、どうかアランさんの力をお借りしたい」
「この老いぼれにどうしろと?」
「内々に連邦主要都市にわたり、とある騎士養成学校で、教官として兵の教育をお願いいたします」
真剣な面持ちで見つめられたアランが、黙って湯呑みをあおり、静かに茶托へ戻す。
「……仮にも、一度は連邦に忠誠を誓った身であるから、応と返したい。だが、私にはもう無理だ。年老いてしまってから、全盛期の一割も力を出せなくなった。それに歳が歳だ、いつ逝っても不思議ではない。ほかに、まだ若く腕の立つ者をあたった方が良かろう」
言葉を聞いたネネは、視線を横に逃がして、わずかに考えた。
男が本当にあの伝説の剣聖であるならば、まだ望みがある。すでに年老いていることは承知の上であるから、こうした場合の用意もある。であれば確かめるべきことが一つ、これは欠かせない。
「不躾ですが、もしよろしければ、今のお力というものをお見せいただけませんか?」
それは、老いたアランの実力である。
「構わないが、どう見せれば良いかな?」
「私と試合をしましょう。こう見えて剣の実力は、管理局の中でもトップクラスなんですよ」
「それはそれは。ではどうか、お手柔らかに頼もうか」
成り行きにまかせ、表に出る。
アランが小屋のわきから持ち出した二振りの木剣のうち、ネネは片方を与えられた。命を奪いあうための勝負でないため、自前の剣をもちいないこの得物での決着に、彼女はすぐ納得した。
また、あくまでも試合として扱うため、ルールを決めて立ちあうことで合意した。
「時間無制限の一本勝負でいきましょう。寸止めはできますか?」
「……だいぶ勘が鈍っておるようだ。うまくできるか保証はない。何、九十にもなった爺が振るう剣だから、あなたの腕が確かなら当たらんだろうさ」
正午近くになった晴天からは、あたたかな日光が小屋のわきの広場に差している。
この場所に適当な距離をおき、ささやかな挑発を交わして、合図もなく始めた。
先に仕掛けるネネは、一足飛びにアランの懐まで飛び込み、木剣を横になぎつける。
神速という異名を持つ彼女の、踏み込みから斬り込みまでは、ほんの瞬きをする間でこと足りた。人間の体内を流れる生命エネルギーの緻密なコントロールによって、一時的に身体能力を飛躍させたからこそできる芸当だった。
対して、アランには少しも動く気配が見受けられない。ただ木剣をゆるく構えたままであるのは、自分の動きに対応できていないからなのか、それというものが彼女にはわからない。
無抵抗? 反応できていない? わからない、止めるべきか……。
予感がして、やむを得ず寸止めをしようかと考えた時に、彼女は見た。
自分のそれの何倍も速い体捌きで、アランが斬撃の届く範囲から逃れたのである。
正面にいた相手を見失い、気がつけば背後もとられて、圧倒的かつ得体の知れない、強大な気配を当てられていた。彼女は背筋を凍らせたまま、もう動けなくなった。
「ほれ、一本かな?」
力の大きさと不釣り合いな、気の抜けた声とあわせ、木剣の腹でこつんと、頭を優しく叩かれる。冷や汗を流すネネは、この結果に伝説の実在を確信すると、小さく笑うのだった。
◆
「まさかあれほどとは……お見逸れしました」
掘っ建て小屋の中で頭を下げるネネは、アランに素直に敬服していた。
老いにより力を失っているにもかかわらず、相手は自分のそれを優に上回っていたのだ。これが僅差なら、くやしい思いをしていただろう。しかし、実際は言葉にしがたいほどの大差があった。
彼女は完膚なきまでの大敗に、むしろ清々しい気分になっていた。
「いや、そうでもないさ。あれが今の私の限界だ。あなたの剣筋と体捌きを見たが、数年もすれば、あなたもあのくらいは容易くできるようになるだろう」
「伝説の剣聖にそのようなお言葉をいただけるとは、嬉しい限りです。私は確信しました。この大役をお任せできるのは、きっとアランさんだけだと」
「どうしてもやれと言われれば、お引き受けはする。だが老い先短い私の身体では、できることにも限りがある……あまり大きな期待はしない方がいい」
アランが遠回しに難色を示すが、彼の実力を十分に知ったネネには考えがあった。
彼がまったく予想していなかったもの──極めて珍しい手段だった。
「もしも私が、そのご老体を若返らせるものを持っているとしたら、いかがでしょうか?」
「私を若返らせる、とな?」
ネネは手荷物の中に手を入れ、小瓶を一つ取り出した。
アイゼオンの『神樹』と呼ばれる大樹の葉より、三百年に一度だけ採れる雫が入ったもの。非常に高価で貴重な代物であるが、くだんの世界情勢をかんがみた国の最高権力者から『開戦をまぬがれるためならば』と託されていた。
「これは、私の祖国で国宝とされる『神樹の雫』です。神樹は無限の生命エネルギーを宿す大樹……言い伝えによると、人が飲めば、肉体はもっとも充実していた時まで若返るとされています」
「これを飲み、全盛期の肉体を手に入れたならば、騎士養成学校で教官として勤めよと。つまりは、そういうことなのだな?」
「はい。引き受けて、いただけますね?」
アランが目を閉じて考え込む。
返事を渋るというよりも、誰かに思いを馳せるように優しげな、今ばかりはこの場から心が離れたような、曖昧な態度であるだろうか。
そう察したネネは、急かさずに待った。
「……いいでしょう。どうせこのまま朽ちるだけの命だ。今度は違う道を歩んでみようか」
やがて意を決したアランに、ネネは表情を明るくして小瓶を差し出した。彼がそのふたを開けて、一息に飲み干すさまに釘付けとなり、その変化をうかがう。
穏やかに変わるのかしら、それとも一気にしわが消えたりして……。
若干わくわくとしていたが、彼女はそれから顔を曇らせることになった。
途端にアランの身体が発熱を始めたのだ。彼が喉や胸を押さえて苦しみ悶えるさまは、まるで毒を盛られたように、あまりにも、むごたらしいものに見えた。
「アランさん!? 大丈夫ですか!?」
神樹の雫がもつ実際の効能を知らないネネは、これに戸惑いを隠せなかった。もしかすると、このまま絶命してしまうのではないかと、不安さえも抱いていた。
黙って呆けてはいられない、私がなんとかしなきゃ……。
気を持ちなおした彼女は、屋内のすみに畳まれていた布団を敷き、アランをそこに寝かせた。
「しっかりしてください……まさか、こんなことになるなんて」
少しでも熱を冷ますため、ネネは外にあった水瓶から、桶に水を汲んで用意する。
自前の手拭いを濡らしてアランの額においた。手拭いが熱を吸ってぬるくなるたび、冷たいものに替えることを繰り返した。また、彼の身体がひどく汗をかけば、それをこまめに拭き取った。
そうしたことを、翌日の明け方まで続けたのだった。
ネネはうたた寝から目を覚ました。
日の昇り具合から昼近いこと、目の前にある布団が空であることを知った。昨晩、覚えがある限りうなされていたアランの体調が気にかかり、彼女は小屋を出て、辺りを調べた。
起きて水をかぶったのか、水瓶のそばには水溜りが一つ。これに連なって水のしたたった跡があるなら、そちらへ向かったに違いない。その先である小屋の裏手では、絶えず滝の音がしていた。
跡をたどって滝壺に行きついた彼女は、岩礁の上に青年を見つけた。
白い髪と着物の染め具合には、見覚えがある。だから、彼を呼ぶ名前も、自然とそうなる。
「アランさん?」
聞こえていないのか、轟々と鳴っている瀑布を見据えた青年からは、返事がない。今にも引き抜かんと、手は柄に構えられている。そんな青年が精神統一を思わせる沈黙と深呼吸を繰り返すほど、異様なまでに生命エネルギーの高まる気配が感じられた。
そして一瞬の抜刀から、続けざまに振りきられた。
一閃する刀身から放たれた衝撃波が、瀑布を逆流させる。影響して巻きあがっただろう水飛沫が、数秒してどっと降りそそいだ。この場の天気が、たちまち一風変わったにわか雨となる。
これを被って唖然となるネネをよそに、青年が微笑みと一緒に振り返った。
遅れて返事をした青年の声音は、聞くにやわらかく穏やかなものだ。
「おはようだ、ネネ殿」
東の国の人知れない山奥。かつて歴代最強と謳われる剣聖だった老人と、世界の平和を願って働く女が出会う。この出会いが後の世に何をもたらすか、今はまだ誰も知らない。