序章 日常生活を送ろうとしたらおかしな状況になったけど如何すれば良いのだろう
六時半になると同時に、目覚まし時計とスマホがけたたましくベルを鳴らす。起きられる気がしなかったための対処だったが、うるさすぎて頭が痛い。
今日は朝からミーティングがあるため、いつもより三十分早めにセットしていたんだったか。半分寝ぼけた頭で、枕元をごそごそと漁る。手に当たった目覚まし時計のスイッチを押し、ベルを止める。無理矢理にでも起きられるように、とにかく音の大きいのを買ったが、近所迷惑だな、これ。
見つけたスマホもアラームを止める。そのまま画面を開きメールを呼び出した。障害検知のアラートは来ていない。良かった。
ほっと息を吐いた瞬間、再度目覚まし時計が鳴り始める。あー、寝ぼけてスイッチ間違えた。目覚まし時計をひっくり返し、別のスイッチを切る。
「ね……眠い」
システムエンジニア生活が続き、緩み始めたお腹をなでながら、布団からもぞもぞと起き上がる。布団の温もりが恋しい。
二年前までは妻が起こしてくれたが、離婚した後は一人で全てを賄わなければならない。
空しい気持ちが込み上げてくる。
ゲーム機の本体から外れたまま転がっているコントローラを拾い上げて、ケーブルに接続し充電ランプが光るのを確認する。
「シャワーだけ浴びて、朝は会社で食べるか……」
冬の冷気を浴びながら、風呂場でガタガタ震えてお湯が出るのを待つ。古いアパートなので、お湯が出るまで五分程かかる。
「今日は年度末の電話システム全社一斉更新の、立ち上げミーティングか。資料揃えているんだろうな、あいつ」
部下の顔を思い出す。威勢のいい事は言うんだが、問題が発生すると途端におろおろするんだよな。何と言うか、成長してくれ、本当に。
あぁ離婚から日が経ち、日に日に独り言が増える。初めのうちは気付かなかったが、静寂の中で反響する自分の声がやけに心に痛く突き刺さるようになった。
やっとお湯が出始めたのを確認し、パジャマを脱ぎ、畳んだ物を布団の上に軽く放る。
下着は脱衣籠に放り込み、風呂場に入る。昔の体の名残はほとんど残っていない。ジム通いも最近は仕事の帰りが遅く、月会費を払っているだけになっていた。偶に気が向いた土日などには顔を出すが、その程度だ。
シャワーから出る熱い湯を浴びる。布団から出て冷え切った足先に、痺れるような熱気が伝わってくる。
「もう年末も近いのに、代り映えしない日々だな」
自嘲気味に微笑みながら、タオルで乱暴に体を拭う。髪はスポーツ刈りに近い短髪なのでセットの必要もない。
下着とシャツを着て、エルゴノミクスチェアに座る。スマホで本日のニュースと持ち株の株価をチェックする。
「ニュースでも大きな話はない。株価も昨日からの大きな変動はないな。もうちょっとの間は現状維持かな。あまり売り買いするのも面倒だし」
朝の日課も終わり、そろそろ家を出る時間も近づいてくる。
「さぁ、今日も一日頑張りますか」
スーツを着込み、通勤鞄を持ち、革靴を履き、アパートの扉を開けた瞬間。
そこは真っ白に輝く空間だった。
「え?」
狭い廊下から一階への階段と続くはずの空間は無く、ただただ真っ白な空間が扉の前に広がっていた。
ふと後ろを振り向くと、今閉めたばかりのアパートの扉すら無くなっていた。
「何これ? どうなっているの? わかる人説明してくれないかな」
半ば呆然としながら返答を求めない疑問を空間にぶつけてみる。
≪状況認識及び応答を希望されました。スキル『識者』の付与を実施します≫
幼い中性的な声が明確に聞こえる。ただそこに甘さはなく、電子音声に近い硬い声だった。
「しきしゃ?」
しきしゃ……指揮者? 識者? それが何を意味するのかがさっぱりわからない。
ただ、この現状を把握し説明して欲しいがために疑問を発したのだが、しかし返ってきたのがこれだったため、余計に混乱が増した。
「よくわからない。何が起きているかの現状確認を行いたいだけだ。君は誰だ? 私は今どの様な状況におかれている?」
≪現状確認の明示化を希望されました。スキル『識者』より派生させ、スキル『認識』を構築しました。スキル『認識』の付与を実施します≫
疑問を投げかけたのに、全く意味のない答えが返ってきた。情報のやり取りが出来ないのかこの状況は。出来の悪い人工知能か何かと喋っている気がする。
純粋にこちらの要求を提示した方が話が早い気がしてきた。
「私は現状の情報、得られる全てが欲しい。君にはそれが実行出来るのか?」
取り敢えずはあるだけの情報を得た上で、今後の判断をすればいい。その上で現状を打開し、会社に行けば日常に戻れる。
そう思い、大きな意味での全てを求めた。
≪実行する全ての情報及び経験の取得を希望されました。スキル『獲得』の付与を実施します≫
曲解も甚だしい答えが返ってきた。聞いているのに、答えが返ってこないこの不毛感……。
このまま押し問答を繰り返しても、埒が明かないだろう事は明白だった。
「この真っ白な空間から出して欲しい。可能だろうか?」
最もシンプルかつ間違いようのない疑問、要望を投げかけてみた。
≪私はインターフェース。貴方を此方より彼方へ送るものです≫
此方? 彼方?
私はアパートに戻り、会社に行く事が出来ればそれで良いのだが。
≪では、良き旅路を≫
インターフェースと名乗った存在が最後の言葉を残した途端、真っ白な空間は輝度を上げ、目を開く事も困難になってきた。
「おい。元の場所に戻してくれるだけでいいんだ。おいっ」
輝度は益々上がって行き、それと共に気のせいか浮遊感まで感じるようになってきた。
このままどうなるのか、全くわからない事にぞっとする。
そのまま気を失った事に気づいたのは、森の中の開けた場所に横たわっている状態で目を覚ましてからだった。