プロローグ
それは完全な存在として生み出された。
より正確に言うならば、創り出された。
完全にして完璧にして無欠にして無謬。
それは役儀を全うするに当たって必要なもの全てを過不足なく備えていた。
健康的かつ強靭成り得る肉体、魔術的な才能、任務の遂行に必要となる知識。
生まれながらにして英雄の器としての完成が済んでいた最高傑作だった。
故にそれは、どうしようもなく悲劇的な存在だった。
このアークレアという世界には、不幸を経験した者が転生という形で訪れる。
そして彼ら彼女らは、過去生では有していなかった特別な力を得る。
神代の時代、特に大きな力を得た者達を──英雄と呼んだ。
さて、あらゆる異界から死者が転生するこの世界には、あらゆる異界の知識が流入している。
必然、あらゆる世界の神話、寓話、伝説、歴史に関する知識も。
そうして集積された、ある種物語と包括してしまえる情報には、多くの類型が見られた。
例えば、神が天地を創造したとされる、あるいはそうであると信じる宗教が存在する、とか。
例えば、人類が生態系の頂点に君臨している、もしくはしていた、とか。
例えば、人類は争いをやめることが出来ない、とか。
多種多様な無数の異世界であっても、ほぼ必ずと言っていいほど類似する共通項の数々。
アークレアではこの世界の神こそが全ての創造主であると考えられている。そうであれば、全ての異界をその都度一から、これまでとまったく異なる世界に作り上げるというのは大変な労力である。
世界を作るにあたってのフォーマット、基本形が用意されていてもおかしくない。
そして、英雄に関してもそれは同様のようだった。
いわく。
英雄は神の声を聞く。
英雄は悲劇を経ている。
英雄は非業の死を遂げる。
無論、百の内百の英雄が型通りの存在であるというわけではない。
だが、偶然と切り捨てるにはあまりに類例の数が多過ぎた。
全ての転生者は神の声を聞いている。
全ての転生者は悲劇を経ている。
全ての転生者は非業の死を遂げている。
あぁ、きっと彼らは英雄としての在り方を求められてこの世界に喚ばれたのだろう。
だが、どうやらそれだけでは足りないらしい。
全ての転生者が英雄になるわけではない。そこまでの境地に到れる者は極めて稀だ。
では、何が常人を英雄とする? 簡単だ。
『異常』があればいい。
誰かを幸せにしたいという『愛』でも、誰かを不幸にしたいという『害意』でも、世界を手中に収めたいという『野望』でも、世界が平和になりますようにという『希望』だって構わない。
誰でも一度は、微かにでも、戯れにでも考えたことのあるような想い。
その延長線にありながら、その純度が、思いの丈があまりに強過ぎた場合、それは異常となる。
不幸を願えど危害は加えない。それは正常の範疇。
不幸を願って危害を加えれば、それは異常の行い。
願望の実現に際し、他者を害することを躊躇わない精神構造。
己の為に、誰かの為に、何でも出来てしまう心の持ち主。
そういった稀有な人格にこそ、稀有な能力は与えられる。
あるいは目的の達成を望む心を汲み取り、能力が発現するのか。
どちらにしろ、それが尋常の英雄の生まれ方。
それは違った。
英雄に成る人物ではなく、英雄として生まれた。
在り方は生誕より先に用意され、終わり方もまた運命により定められていた。
神の声を聞いた。
悲劇を経た。
そして、そう。
それは、いずれ非業の死を遂げる。
選択の連続が英雄を形作る、そうあるべきだというのに。
英雄に至る者の共通項を事前に埋め込まれた人形は、条理を無視したが故に罪を犯したと判ぜられ、まるで代償のように罰を刻まれた。
理を欺いて英雄の座についた罪人は、せめて英雄のように死ねと言わんばかりに。
望んでそう生まれたわけではないのに、最初から全て周りに決められた。
在り方も、生き方も、死に方さえ。
世界の用意したレールは、どう足掻いても踏み外せなくて。
それは、少女の形をした英雄は、クウィンティ・セレスティス=クリアベディヴィアは。
今日も灰色に映る景色の中、絶望の上を歩いている。
その道すら、絶望を凌ぐ酷薄さによって崩れ去るものと知りながら。
歪んだ死で固定された道を、無気力に努めながら辿っていく。
抗う術などないのだから。どうにもならないのだから。仕方のないことなのだから、仕方がない。
そう、思っていたのに。諦めていたのに。
出逢って、しまった。
少女の知る世界の外側からやってきた少年は、誰もくれなかったものをくれた。
何気なく放たれた、なんてことのない言葉だったのだろう。
だけど、少女にとっては世界が色づく程の衝撃だったのだ。
深海に沈むのを待つばかりの身体を、太陽の下に引き上げてもらったような。
一寸先も見渡せない霧が晴れたような。
止まない筈の雨が止み、明けない筈の夜が明け、咲かない筈の蕾が花開いたような。
奇跡のような言葉だった。
それは、逃避の肯定で、希望を持つことへの肯定で、己自身として生きることの肯定で。
とても、英雄に向ける言葉などではなくて。
求めて止まずにいたもので、どれだけ望んでもそれまで与えられることのなかったものだった。
少年との出逢いは少女にとって、人生最大の幸福とさえ言えるものだった。
救われる思いだった。
だが、言葉で運命は変わらない。
選択によって結末が変わることを人生というのなら、少女には人として生きる資格さえなかった。
何故なら、何を選び、何を成そうとも、望む場所には決して辿り着けはしないのだから。
人生最高の幸福は、人生最悪の不幸でもあった。
叶いもしないのに、夢を見ることを思い出してしまったから。
手に入りもしない世界の鮮やかさを目に刻んでしまったから。
明日をも知れぬ、不治の宿痾を魂に抱えた少女は、
黒い輝きに胸を焦がし、喜びを噛み締めながら痛みに喘いでいる。
第一章 青天霹靂、次代を担う
黒野幸助がアークレアに転生してから、一ヶ月が経とうとしていた。
一復讐者でしかなかった少年は多くの出会いに恵まれ、一つの再会を果たした。
この世界で大切だと思える者が出来、妹は記憶を取り戻した。
その能力と功績により、英雄として認められた。
だが、喜ばしいことだけではない。
世界は今、戦時下にあり。
幸助の所属する国家・ダルトラは一人の英雄を失った。
山積する問題に対し、英雄である幸助も当然無関係ではいられない。
これまで以上の貢献と活躍が求められる。
妹との再会を目的として再起した復讐完遂者は、それを果たした先で道が途絶えていないことに気付いた。自ら断った生は異界の神に繋がれ、再度断つことをシロによって踏み止まり、妹と新しい約束を交わすに至って。
二周目の人生は、幸助に多くの影響を与えた。
それこそ、一復讐者を世界きっての英雄に変えるに充分過ぎる影響を。
「こうすけさん、よろしいですか?」
控えめなノックの音と、幼さの残る声。
朝だ。
空模様は時に心を転写するようで、しかしそれは錯覚に過ぎない。空は個人の心など汲みはしない。大事な日に大雨に見舞われることがあれば、酷く落ち込んでいる時に青空が広がることもある。
その日もそうだった。
こちらの気も知らず、空は悩みなど一つも無いとばかりに晴天。
赫々と耀く太陽は影という影を駆逐するように明るく、それが少年には少しばかり鬱陶しい。
窓越しに明るい空を一瞥し、それから幸助は声に応えた。心の内の暗い感情を感じさせない、優しい声が出せたと思う。それから数秒後、ゆっくりと自室のドアが開かれる。
現れたのは、蒼氷の毛髪と瞳を持つ童女・エコナだ。
ドアから控えめに顔を出す彼女は、どこか恥じらうようでもあり、いじらしい。
目が合い幸助が微笑むと、エコナは意を決したように全身を露わにする。
童女は黒装束に身を包んでいた。
ヴェール付きの帽子、ドレス、肘先までの手袋──イブニンググローブ。その全てが黒。
ダルトラの葬儀における正装だった。つまり喪服。
そう、今日は国を挙げての葬儀、国葬が執り行われる日だった。
『霹靂の英雄』リガルの死を悼む為の日。
「こうすけさんは、軍服もお似合いですね」
エコナの笑みはどこかぎこちない。
リガルは彼女の故郷であるギボルネとの和平交渉を担うことになっていた男で、それを殺したアリスは彼女の夢である魔術師育成校見学の際に優しくしてくれたという。
心境はとても複雑なものだろう。
幸助は「そうかな」と言って自分の姿を顧みた。
ダルトラの軍服は白を基調としたデザインで、所属と階級はそれぞれ襟に着用した徽章によって判断される。勲章受章者はそれを左胸に並べることとなっているが、平時は実用性・機動性の観点から略綬の佩用が推奨されていた。仰々しい勲章を下げるのは、式典や葬儀の時くらいのもの。
英雄は式典の場合礼装での参加が通例となっている為、実質葬儀でしか用途がない。
幸助が授かった勲章は少ないが、忘れず留めている。
その上に、上位軍人にのみ支給されるロングコートを羽織っていた。
「はい、とてもかっこいいです」
ぐっ、と両手を胸の前で握り、エコナが力説する。
嘘ではなくとも、気遣いの滲んだそれに心が温かくなる。エコナは賢く健気な子だ。幸助の気分が自分以上に落ち込んでいることを察して、努めていつも通りに振る舞っているのだろう。
その優しさが胸に沁みる。
そこで彼女が躊躇いがちに入室したことを思い出す。今も小さな指同士を腹の前でもじもじと組んでいた。ちらちらとこちらを上目遣いに見上げては逸らすを繰り返す。
少し遅れて、幸助は彼女の求めている言葉を察した。
「エコナには黒も似合うな。なんだか大人びて見えるよ」
彼女に貰った温もりの僅かでも返せたらと、こちらも素直に褒めてみる。
目の前に屈んで視線を合わせ、微笑んでそう言うと、エコナの耳がぴくりと揺れた。
それからゆっくりと、言葉が浸透していくかのように、童女の表情が柔らかくなっていく。
「ありがとう、ございます」
面映ゆそうにはにかむ彼女を見ていると、それだけで柄にもない台詞を口にした甲斐があると思えた。この笑顔が見られたのだから、照れ臭い言葉を言ってよかった、と。
二人の間に流れる空気が弛緩する中、ドアの外にそれを覗く目があった。
「じぃ……」
トワである。
記憶を取り戻して以後、それまでの住居を手放し共に暮すことになった。
エコナとの関係は良好で、ここ最近は童女を抱きまくらに寝ているようだ。
そんな妹は黒曜石の瞳にどこか拗ねるような色を滲ませ、唇を不機嫌そうに尖らせている。
「なに隠れてんだよ。仲間に入りたいのか?」
幸助の言葉に彼女はビクっと身体を震わせ、それから慌てて部屋に踏み入り「はい? 意味がわからないんですけど?」と喧嘩腰で言った。
知らない者からすれば苛立っているようにも見えるだろうが、違う。
図星を突かれたが認められず誤魔化そうとした結果、どういうわけか高圧的な態度になってしまうのが黒野永遠という少女なのだった。
我が妹ながら面倒な性格をしているものだ、と幸助が呆れていると、彼女の様子に変化が。
彼女から見て右、やや長めの横髪を一房手にとって弄りながら、幸助と自分の服装を交互に見ている。
彼女は女性用の軍服の上に上位軍人用のロングコートを羽織っている。男性用との違いは、細かいところを除けばスカートであるという点か。
葬儀への参列ということを考えてか、赤い宝石の髪飾りは外されている。また、髪も高い位置でポニーテールに結われていた。普段の彼女を『黙っていれば儚げと言えなくもない』とすると、今の彼女の雰囲気は『凛々しいと言われればそうかもしれない』程度まで変わっている。無論、兄視点で。
幸助が黙っているのを、褒め言葉を考えている間だとでも勘違いしたのか、トワはそわそわした様子で待っていた。いかにも褒めてほしそうな顔で兄の顔を覗き込む。
幸助は当たり前のように──無視した。
「皆準備終わったみたいだし、下りるか」
「ちょっと! 最愛の妹の軍服姿ですけどっ!? なにかあるでしょ!」
幸助とて、妹の気持ちくらい汲める。
リガルの葬儀に思うところがあるのは全員同じ。
だからといって暗くなり過ぎてはいけないと、つまり場を和ませる為に話題を明るくしようと努めているのだ。
気遣いはエコナと同種のものなのに、どうして呆れが勝るのだろう。
人の心は不思議だなぁと考えながら、エコナを促し階下へ下りる。
心優しいエコナが「とわさん、素敵です」と言うものだから、トワは調子に乗ってしまった。
「エコナちゃんも天使みたいに可愛いよ……この世界の天使は敵だけど。で、コウちゃんは何か言うこと無いの?」
アークレアで天使と言えば、神域という迷宮において攻略者に試練を与える存在を指すことが多い。
神の使いであることに変わりはないが、確かに過去生で同じワードに抱いていた印象とは異なる。
「エコナはどちらかというと、妖精って感じだなぁ」
一階へ下りる。
照れるエコナを微笑ましく思っていると、妹は懲りずに「トワは?」と訊いてきた。
このまま無視するのも面倒だと彼女に向き直り、一通り服装を確認。頷いて一言。
「スカートが短過ぎる」
「お父さんみたいなこと言わないでくれない?」
不機嫌そうな半眼──ジト目でこちらを睨むトワ。お気に召さなかったようだ。
「……うーん、あ、目つきが悪い」
「服関係ないし!」
頑なに褒めない幸助に、トワは片頬を膨らませてむくれる。
そんな二人の会話を、エコナが羨むように眺めていた。
「おふたりは、本当になかよしさんなんですね」
喧嘩する程……というようなことを言っているのだろう。
エコナに言われると、それを否定するのは躊躇われる。
「こうすけさんはきっと、照れていらっしゃるんだと思います。とわさん、とても綺麗で格好良いから」
曇りも濁りもない眼で、エコナは恥ずかしげもなく言い切る。
純粋でいるには、彼女の過去の経験は凄惨に過ぎる。家族と同郷の者を奪われ、奴隷として使役され、危うく魔物の餌になるところだった。
それでもなお、彼女の優しい心根は曲がることなく、歪むことなく保たれていた。
幸助がエコナの言葉を無下に出来ないのは、その奇跡のような美しい心を尊重したいという想いが働いてのことかもしれない。
トワは表情をだらしなく緩ませ、エコナに抱きついて頬摺りし始める。
「あーあ、エコナちゃんみたいな妹が欲しかったなー! 素直だし可愛いし良い子だし超可愛いし」
エコナは「ひゃあ」と驚いた声を上げるも、されるがままだ。
「それに比べてコウちゃんはなぁ~。素直じゃないし意地悪だしなぁ~」
やけにこだわるものだな、と幸助は疑問に思う。
服装に対する兄の感想など、求めるような奴では無かった……と考えたところで思い至った。
エコナのことを褒めたから、か。
一緒に住んでいる幼女には優しい兄が、自分には素っ気ない。嫉妬というより不満。優しくされたいというより、釈然としない。そんなところだろう。
何も似合っていないわけではないのだから、気が済むのなら一言くらい、と考えたところで。
「はぁ~、ほんとは超シスコンのくせにな~、かっこつけちゃってさ~」
拗ねるような彼女の言葉に、喉元まで出掛かっていたものを飲み込む。代わりに出たのは。
「生涯無縁の言葉だ」
という、これまた素っ気ないもの。
少しだけ傷ついたように彼女の眉が下がったが、すぐに意地の悪い笑みを浮かべる。
「……ふ、ふふっ。そっか、エコナちゃんの前だから照れてるんだね? まったく昔からコウちゃんってそういうとこあるよね~。友達の前だとトワのこと無視したりさ~。そういう子供っぽいとこ、直さないとだよ?」
「妹が何着てるかなんて隣の家の夕飯くらいどうでもいいんだが」
心底どうでもよさそうに言うと、トワはエコナから離れ幸助の横まで歩いてくる。
そしてやや不機嫌そうに、細い指で兄の頬を突く。
「そんなこと言っちゃってさー、ほれほれ、言うてみい。可愛いとか世界一可愛いとか宇宙一可愛いとか全異界一可愛いとかあるでしょ。あ、ちなみにコウちゃんは別に普通です」
ぐにぐにと頬がへこんでは元に戻る。仕返しに額を指で弾いてやろうかとも考えるが、エコナの手前踏み留まった。
これは褒めるまで終わらないなと諦め、仕方なく口にする。
「……あー、似合ってるよ。特に、なんだ、その……布を纏っているところとか」
「いやぁそこまで褒めなくても──って褒めてない!? あぁもう、やり直してっ!」
記憶を取り戻して以降、彼女はまるで五年前に戻ったように振る舞うようになった。
『紅の英雄』ではなく、生意気な妹として。
鬱陶しいなと常に思うが、邪魔だとは決して思わない。
大切なものの価値は失って初めて気づくと言うが、だとすれば幸助は大切なものの価値を知った後で、奇跡的に再び巡り合うことが出来たわけだ。
だからきっと、それを見失うことだけはないのだろう。
こんなこと、本人には口が裂けても言えないが。
ぎゃあぎゃあ煩いトワを、エコナが懸命に宥めている。
どちらが年上か分かったものではないな、と少しおかしくなって幸助は笑った。