プロローグ
「おい幸助、妹が来てんぞ」
それは黒野幸助が小学校三年生の時の記憶。
双子の妹である永遠と幸助のクラスは別で、昼休みもそれぞれの友人と遊んでいた。
兄妹とはいえ男は男、女は女のグループに分かれていた為、校内で進んで関わる事はあまりない。
その日の昼休みも、幸助は友人らと校庭でサッカーをするつもりだった、のだが。
いざ教室を出ようとしたタイミングで、涙目の妹が教室の扉越しにこちらを見ている場面に遭遇してしまったのだ。
「コウちゃん……」
くいくい、と手を動かし呼び寄せる仕草。
「仲良し兄妹だなぁ」
周囲の冷やかしの声を適当にあしらいながら、妹に近づく。
「なんだよ」
やや荒っぽく言うと、永遠は拗ねるように唇を尖らせた。
だが文句を言わず、ぼそぼそと漏らす。
「今日、チホちゃん来てなくて、サキちゃんとユミちゃんはサクラちゃんのグループに行っちゃってミホちゃんは……」
「いい、いい。名前言われてもわかんねぇし。とにかく遊ぶ相手がいないんだな?」
学校生活を送っていると自然と出来るグループという単位。多くのそれに参加出来る者もいれば、逆に一つのグループしか持たない生徒もいる。
どちらが偉いとか、上だとか、そういうことを幸助は考えたりしないが、一つにしか所属していない生徒は、それが機能しない日になると一人ぼっちになってしまう。
どうやら今日、永遠は一人ぼっちの日らしい。
中学に入る頃には社交性の仮面も分厚くなっていたものだが、小学三年生の頃の彼女は年相応の、どちらかといえばやや泣き虫寄りな子供だった。
幸助の言葉に、こくこくと頷きながら、永遠は幸助の服の袖とちょこんと掴む。
「おーい幸助、先行ってるからな。妹とイチャイチャしてていいぞ」
へらへら笑いながらからかう友人達を、「うるせぇ」と苦笑しながら見送る。
「あのなぁ、永遠。俺、サッカーしたいんだけど」
「…………うん」
頷きながらも、永遠の黒曜石の瞳が水気を帯び、潤み出す。
「お前ほら、読んでる途中の本あったろ。それ読めばよくね?」
「教室で? 一人で? 恥ずかしいよぉ……」
目尻にぷっくりと浮かぶ涙を見て、幸助は一度目を閉じる。
それからゆっくり溜息を溢し、それから目を開けた。
インターバルの間に瞳に宿したのは、諦めの色。
「兄妹で本読むってのも、かなり恥ずかしいと思うけどなぁ」
パァッと永遠の瞳が輝き、首をぶんぶんと横に振る。その頃から伸ばしていた黒艶の毛髪が、忙しそうに、それでいてしなやかに揺れた。
「トワ、そんなことないって思う。いいよ、読書! 運動ばっかだと、お馬鹿さんになっちゃうよ」
「はいはい」
教室だと目立ちそうなので、二人は図書室に移動した。
幸助達の通っていた学校の図書室には何故か隅の方に一つだけソファーがあり、そこに並んで座る。
ふと横を見ると、先程までの涙目が嘘のように、永遠の瞳の中で楽しげな光が揺らめいている。
「コウちゃんが読んで。声に出してね」
「え、音読かよ」
「セリフのとこはトワが読んであげるから。そこがんばろ、ね?」
「なんで上から目線なんだ」
「怒られるのヤだから、小声ね」
「……クソ面倒クセェなぁ」
文句を言うと、頬を膨らませた妹に小突かれてしまう。
反撃に鼻を摘むと「いきできりゃい~」と顔を赤くするので、おかしくて笑ってしまった。
「口で出来るだろ」
「すぅ……ほんとら」
本当に驚いたような顔で言うものだから、幸助は更に笑った。
思ったより大きな声が出てしまい、その所為で真面目そうな図書委員の女子に睨まれてしまう。
「図書室では静かにだよ、コウちゃん」
「…………くっそ」
反論出来ない幸助だった。
気を取り直して、読書開始。
主人公のエルマーという少年が、とある野良猫から可哀想な竜の話を聞き、住んでいるのとは別の島へと救けに行く話。
幸助はなるべく平坦な調子を心がけ読み上げたが、永遠の方は役になりきって声色を変えながら読んでいたのがちょっと面白かった。
元々途中まで読んでいた本なので、休み時間内に読み終わる。
児童向けの物語らしく、最後は竜の子供を救けることが出来、永遠もほっと安心していた。
休み時間も残り少ないので教室に戻ろうと考えていると、服の裾を弱気に引かれる。
「……何だよ」
妹は他の部分よりやや長めな右前髪を一房、指で摘んで弄びながら、消え入りそうな声で言う。
「あのさ……コウちゃんはさ。トワがりゅうでもたすけてくれる?」
「竜の妹は要らないなぁ……」
「そ、そういう意味じゃないしっ!」
ぽかっと肩を叩いてくるので、仕返しにでこぴんする。
「あうっ」
両手で額を押さえながら恨みがましい視線を送ってくる妹を無視し、幸助は言う。
「……あれか、お前が困ってたらってことか?」
当たっていたらしく、永遠はこくりと頷いた。
「ただ困ってるんじゃないの。すごく遠くで困ってるの」
「違う島で?」
「そう。あとはね、違う世界とか」
「違う世界ぃ?」
言いながら、それでも幸助はすぐに見当をつけた。
少年少女が此処ではない別の世界へ飛ばされてしまう。
扉の先か、クローゼットの奥か、洞窟の中か、森の道か、街中の通路と通路の間というのもあったか。色んなところと異界は繋がっていて、色々な物語で主人公達はそこを見つける。
大抵、その世界での出会いや主人公が持つ生来の勇気などが状況を打開するが、トワは自分がそうなった時、幸助に救けに来いと言っているのだ。
「やなこった、自分で頑張れ」
ひらひらと手を振りながら呆れるように言うと、トワの表情がくしゃりと歪む。
「来てくれないの……?」
うるうる、と瞳に水分が溜まり、揺らめく。あと十秒もしない内に決壊するぞ、とでも言いたげにギリギリだった。泣けばどうにかなると思っているのではなく、本当に悲しいのだろう。
「…………面倒クセェなぁ」
永遠は、幸助に味方でいてほしいのだ。頼れるお兄ちゃんでいてほしいのだ。
それを煩わしいと思うことはあるが、不思議と投げ出したいと思ったことはない。彼女がいなければいいと思ったことだけはない。だから、きっと自分自身も、兄であることが嫌いではないのだろう。
幸助は後頭部を煩わしそうに掻いてから、諦めるように呟く。
「……わかったよ」
「うぇ?」
幸助の言葉を受けても、永遠は訝しむように唇を歪めていた。
「たすけに来てくれるってこと?」
「あぁ、隣の教室だろうと違う島だろうと別の世界だろうと、たすけに行ってやるよ」
言っていて恥ずかしくなってきたので、照れ隠しにでこぴんをかまそうとするも、二度はやられないとばかりに永遠が額を両手で守った。
「ねぇ、コウちゃん」
「……まだ何かあんのか?」
「ほんとにたすけてくれる?」
「……あぁ」
「ほんとにほんと?」
「しつこいから嫌になってきたな~」
「え、あ、う、だめだよ! もう言ったもん! トワ聞いたし!」
「なら確認も要らねぇだろ」
「ほ、ほしょうがないとな~、そういうのはやっぱり、ほしょうがありませんと」
によによと頬は緩みっぱなしだったが、まだ足りないらしい。
指と指を絡ませては、幸助の顔をちらちらと見ている。
「保証って? けーやくしょでも書くのか?」
「それでもいいけど、今紙と鉛筆ないしなー、指ならあるけどなー」
と、白々しい誘導をしてくる。
「指切り……ね。まぁいいや、ほれ」
幸助が差し出した右手の小指に、妹のそれが重なり、絡まる。
「指切りげーんまん、うそついたら~えぇと、針二千本のーますっ!」
「千本多くねぇか……」
「普通の約束より二倍大事って意味だからっ、わかった?」
単純に間違えたのだろうに、それを誤魔化そうと顔を赤くしながら言う。
「はいはい」
「おぉ、返事も二倍だ……」
いい加減面倒臭くなっただけなのだが、それは言わないでおく。
予鈴が鳴ったので、今度こそ二人は立ち上がった。
「コウちゃん」
「今度は何だよ」
気怠げに永遠を見ると、上目遣いにこちらを見上げていた。何かを確かめるような視線。
「約束、やぶったらだめだよ?」
「……わかってるよ。針二千本は怖いからな」
ようやく彼女が安心するように微笑んだ。が、何だか面白くないので、その鼻っ柱を指で弾く。
「った……! 何でそーゆうことするっ!?」
怒った彼女を見て、幸助はへらへら笑った。
この日交わした約束のことを思い出したのは、数年後に妹を失った時。
違う島どころか、異世界どころか、手の届く範囲にいたというのに、兄の役目を果たせなかった時。
妹の仇を討ち、異世界に転生した先で再会を果たした今も、消えていない。
二千本の針を呑んだところで、この苦患が如き悲嘆と自己嫌悪には及ばないだろう。
約束を守れなかった痛みは、今なお幸助の胸中に残留している。
そしておそらく、永劫消えることはない。