プロローグ


 くろこうすけの周囲には、七つの死体が転がっている。

 もしこの場に幸助以外の観測者がいれば、その死の形からいかに凄惨な末路を遂げたか想像出来たろう。例えばパイプ椅子に縛り付けられた一人は、四肢の指を一本残さず切り落とされている。例えば裸に剥かれて土下座の体勢をとる一人は、頭部を失っている。例えばスプリングのはみ出た古びたベッドに寝そべる一人は、関節という関節が逆側に曲げられている。例えば一見普通に衣類を身に纏っている一人は、服と肌を糸で縫い合わされている。例えば天井に宙吊りにされている一人は、その頭部を水で満たされたバケツに沈めている。例えば地面に苦しげな表情で横たわる一人は、その腕におびただしい数の注射痕が認められる。そして最後の一人は、全身に刃物を突き立てられていた。

 それらは全て、幸助が手ずから殺めたものだ。駆除、と言い換えてもいい。

 山中に建つ、打ち捨てられた元ラブホテルを舞台に開演した惨劇だった。

 悲劇の生産者、あるいはもっと現実的に犯人と言うべき少年の表情には、感情らしきものが無い。

 快楽による殺人というわけでもなければ、殺し屋稼業というわけでもなかった。

 曇天が月を隠し、夜闇が音の一切を呑み込む、そんな冬の日のこと。葉擦れの音すらも届かぬ暗闇のうちに在って、少年は自身が創り出した惨状の中で膝をついている。まるで地獄だな、と思いながら。

 糞尿と血液の混じった独特の異臭は噎せ返る程に濃度が高く、呼吸する度に酸素だけでなく吐き気をも体内に誘引した。それでも彼の表情に変化は無い。虚無を貼り付けたような無表情を貫いている。

 世間一般の常識に照らしあわせれば、少年の所業は殺人という罪に該当するのだろう。

 それでも幸助に、人を殺めてしまったという意識はなかった。抱ける筈が無かった。

 これが善良な人間に対するものなら、幸助とて良心の呵責に苛まれたかもしれない。

 しかし異臭を放つ汚物と化した者達は、生前からしておよそ善良の対極に位置する人種だった。

 今となっては見る影もないが、七人とも今年十八になる幸助とそう年の変わらない若者であった。

 が、その素行たるや神が実在するならば最優先で天罰が下されるであろう程醜悪を極め、彼らが直接間接問わず死に至らしめた人間は優に百を超える。にもかかわらず、彼らはその日まで一切の罰を受けることなくのうのうと悪辣に浸り、快楽を貪って呼吸することを許されてきた。

 権力者の庇護下にいる悪人は罰せられない。

 社会という構造に必ず産まれる闇。世界規模で見ればそう珍しくもない現実。

 だが、それによって割を食った人間からすれば到底許容出来るものではない。

 幸助も同様であった。彼らに奪われたものは、どうあっても取り返せない。

 この世界で出来得る、どのような行為に身をやつしても取り戻せない。

 だというのに彼らの日常は続いていく。被害は後を絶たず、うずたかく積み重なっていく。

 誰かが終わらせなければならない。

 そう考えるのは、正常な倫理観を有した人類の正常な反応であろうと言えるだろう。

 害虫は駆除しなければならない。疑問を挟む余地のない結論。

 そうして幸助は実に五年の歳月を掛け、その日ついに駆除に成功。

 達成感と呼べるようなものは、込み上げてこなかった。

 快哉を叫びたくなるのではとも思ったが、漏れ出たのは酷く乾いた空虚な笑い声だけだった。

 望む結果を得たというのに一切の感慨が湧かず、胸に去来するのは虚無感とも言うべき寂寥のみ。

 考えてみれば、当たり前のことだったかもしれない。

 非生産的なただの復讐に、満足感など得られよう筈もないのだ。

 そう、少年の行為は復讐だった。五年前に奪われた者の仇を、今日この日ようやく討ったのだ。

 幸助の行為を愚かだと嘆く者もいるだろう。復讐は何も生まないとか、お決まりの文句を吐く者も。

 まったく、馬鹿なことを言うものだ。

 復讐を考えるような人間が、生産性なんて考慮して動くわけがないというのに。

 生み出す為じゃなくて、壊す為の行動が復讐なのに。

 理屈ではなく、衝動なのだ。発散させない限りは、永劫消えることが無い。

 そして、幸助のそれは既に満たされ、霧散していた。

 故に、この世に留まる未練は既に無く。この世に生きる理由も既に無い。

 彼は手に持っていたナイフを、自身の頸動脈にあてがう。後は、終わらせるだけ。


『勿体無いのではないか?』


 そんな声が聞こえた瞬間、黒野幸助の人生は、終わった。

 勘違いで無ければ、ナイフは喉を割いた筈だ。

 視界下方から赤黒い液体が勢いよく噴出するのを、他人事のように眺めていた筈。

 痛みは不思議と無かったように思う。

 現実感が失われていたからか。

 しかし、彼の自殺は成功しなかった。

 あるいは、成功したが死ななかった

 幸助は生きている。

 では次に目覚めた時、彼は一体──『何者』なのだろうか。

 そもそも、人生が終わった彼が死んでいないとは一体どういうことなのか。

 答えは──。



 清涼な風が肌を撫で、瞼越しに淡い光が視覚を刺激する。

 気付けば、幸助は見知らぬ土地に膝をついていた。

「────」

 瞬き程の刹那であったと思う。視界の遮断はそれ程の極短い時間しか行われていない。

 だというのに、目の前の景色どころか時間まで移ろっている。

 場所は廃ビルの中から神殿を思わせる廃墟へと。時間は深夜から早朝と思しき仄明るい時間帯へと。

 いや、そもそもの問題として、どうして自分は死んでいないのだろうと、幸助は疑問に思った。

 舌打ちが漏れそうになるのを堪え、考える。そう、幸助はこの異常事態の中で思考に没頭した。

 目的を果たす時、必要不可欠なものは何か。

 武力か。あぁ、必要になる場面もあるだろう。財力か。ある種万能な力だ。知力か。愚者では切り抜けられない局面があるならば必須だ。人間的魅力か。周囲の助けを得るに役立つ力だ。あるいはそれらによって築き上げた権力か。執れる選択は増すだろう。ただ、幸助が考えるものは違う。

 必要なのは、目的達成まで継続する思考だ。当然、不眠で考え続けろということではない。どのような状況においても、冷静な思考を失うなということである。悩み、惑う時間は無駄どころか隙だ。

 一瞬で現状を把握し、即座に最善策を執る。言ってしまえば精神力こそが、最も重要な力である。

 少なくとも、黒野幸助にとってはそうなのだった。故に理解が追いつかない現実を前にしても動じず、状況判断へと冷静に思考を移行。

 まず、ナイフは確かに自身の命を断つ一撃を成功させた。出血も確認した。治療を施された? 誰が何の為にそんなことを? ナイフはまだ右手に収まっている。このような場所に放置する理由も不明だ。少なくとも現時点ではその可能性は低いだろう。そこで幸助は思い出す。

 確か喉を掻き切る寸前、妙な声が聞こえなかっただろうか。『勿体無いのではないか?』と。

 とはいえ、幻聴が現実の説明になるわけもない。

 そして、幻覚を見る程自分はいかれていないという自信が、幸助にはある。

 だからあくまで目の前の光景が現実であるという前提で、幸助は考えを進めていた。

「…………」

 ぼんやりと自分の姿を確認して、僅かに眉を顰める。

 身長は百七十八センチ。体重七十キロ。細身ではあるが鍛えている為、筋肉分体重が重く出る。

 髪は目に掛かるくらいまで伸ばしているが、好みではなく短くすると幼く見える為。目つきも意識して鋭くしているが、これも同様の理由。毛髪と瞳の色はどちらも揃って黒。

 服装は長袖無地のシャツにデニム生地のジーンズ、そして安っぽいスニーカー。羽織っていたコートは作業の途中で脱いだのだが、此処には無いようだ。

 腕時計や財布、携帯電話などの所有物もコートに入れっぱなしなので取り出しようが無い。

 だが、幸助が驚いたのはそんなことではなかった。

 バケツでも引っくり返したのかという程に浴びていた返り血が、綺麗サッパリ消えていたのだ。

 これはおかしい。

 もちろん先程から何もかもがおかしいが、幸助の服装自体は変わっていないのだ。

 仮にあの現場から何者かが幸助を連れ出したとして、治療後まったく同じ服を用意し着替えさせるだろうか? やはり考慮に値しない程馬鹿馬鹿しい。つまりそう、有り得ない。

 それを込みで受け入れたとしても、では何故こんなところに放置する。ナイフを持たせたままで。

 まったく意味が分からなかった。幻覚説が声高に自身の採用を主張する。

 幸助はそれを理性の一喝で封殺し、黙考を続けた。意識して目を瞬かせ、浅く呼気を漏らす。

 ざっと見渡してみた限りでは、古代の神殿のような趣きである。

 跡地といった方が実態に即しているかもしれない。十数もの石柱が立ち並び天井を支えているが、幾本か折れているし、そうでなくても亀裂の走ったものが多い。

 天井も一部崩落しており、安全性という点で大いに疑問があった。

 爽やかな風が吹き抜け、その拍子に天井の一部がはくらくする。そのまま風に揺られて流れていった。

 森、あるいは林の中にでも建っているのだろう。周囲の景色は緑で満ちている。

 石床のひびを埋めるように根が張っていたりするあたり、使われなくなって久しいことが窺えた。ただ、どことなく神聖さのようなものを感じる。

 過去の残滓というよりは、現在進行形で何者かの加護を受けているような。

 もしかすると、幸助が考えているのとは別の用途で利用されているのかもしれない。

 気候は、現実が冬だったのに比べると多少暖かい。

 それも日本の冬と比べればというだけで、相当する季節を挙げるなら秋寄りだ。

 振り向くと、眼前に祭壇があった。石を積み上げて作られたもので、確か石積壇というのだったか。

 ナイフを手にしたまま立ち上がり、何か載っていないか確かめる。

 石版があったが、文字が掠れて読めない。何となく、現実に存在する言語ではないように思えた。

 目に映る範囲の情報収集が終了。とはいえ、特に何かが得られたわけではない。

 ただ、新たな疑問が生まれる。

 自分は何故、そのまま自殺しないのか。

 元々そのつもりだったのだから、場所が廃ビルだろうが謎の神殿だろうが変わらない筈だ。

 だというのに実際は、再度自殺を試みずに此処がどんな場所か確かめたりなどしている。


『勿体無いのではないか?』 


 まさか、あの幻聴を気にしているとでもいうのか。

 もしこの光景が現実で、あれが幻聴で無かったなら。それはどんな意味を持つのだろうか。

 現実で生きたくないのなら、此処で生きてみろ。そうは受け取れないだろうか。

 もし、そうだとして──それが何だ?

 関係ない。ただ生きろと言われて前向きになるくらいなら、そもそも誰も自殺なんて考えない。

 そうだ。つい癖で『どう切り抜けるか』と考えてしまっただけで、そもそもその必要は無いのだ。

 幸助は再びナイフを首に宛がう。

 あとはこれを、引くだけ。それだけで今度こそ、全てが終わる。


「【砕け散れと命ずるヴォルカー・ウォン】」


 そして首を掻き切ろうとした瞬間、その刀身が粒子と化した。砂粒レベルに分解され、散る。

「────ッ!?

 幸助を驚かせたのは、その現象よりも、声だった。

 入り口とでも言えばいいか、低い段差の階段が連なった場所から、何者かが現れる。

「いやぁ、迷いってものがないんだねきみ。でもやめとこっか」

 それは、少女だった。

 透き通るような白銀の毛髪が、清流のように腰まで流れている。

 優しく陽光を含み、それから柔らかく反射させるような美しい輝きだ。

 黒曜石を思わせる瞳は人懐っこい猫のように垂れ下がり、ほうきょうは楽しそうに緩んでいた。

 薄紅色の唇で弧を描き、細腕をポケットに入れた状態で近づいてくる。

 無理やり現代風に表現するなら、丈の短いワンピースということになるだろう。

 腰に黒い布が巻かれ、その上からエプロンらしきものを掛けている。

 歳の頃は十五、六程度に見えるが、そうとは思えぬ豊満な胸をしていた。

 イメージだけで言えば、ゲームなどのフィクションで酒場の看板娘でもやっていそうな出で立ちだ。



「酒場の看板娘みたい、とか思ったでしょ。正解。酒場で看板娘をしておりま~す」

 軽い調子で喋る少女は、幸助から数メートル程距離を開けて立ち止まる。

 人懐っこい笑顔を浮かべているが、どこか違和感がある。何か別の感情を殺して笑っているような。

「あたしはシロ。そう呼ばれてる美少女だよ。きみの名前は?」

 幸助は柄だけになったナイフを投げ捨て、自称美少女を睨みつけた。

 手頃な自殺手段を失ったというのもあるが、目の前の少女が幸助の自殺を止めたのが問題だ。

 摩訶不思議な現象も気がかりではあったが、それを含めて聞き出す必要があった。

 自殺を封じられるどころか何かしらの目的の為に使役される、という可能性もある。

「訊きたいことがある」

 少女は尋ねるように首を傾げる。

「きみの名前は?」

「これは現実か?」

「きみの名前は?」

「此処は何処だ?」

「きみの名前は?」

「俺はさっきまで、まったく別の場所にいた。これはどういうことだ」

「きみの名前は?」

 少女は機械的なまでに同じ台詞を繰り返した。

 幸助は舌打ちを一つ漏らし、応じる。

「黒野幸助。これでいいか、なら俺の質問に答えろ」

「ふむ。んー、じゃあ、クロだね。当面はそう名乗るといいよ。この世界では日本人名は一般的じゃないし、コウスケだと言い難いって思われちゃうだろうからね」

 日本人名、ということは、日本人という概念自体は少なくとも目の前の少女に備わっているらしい。

 しかし一般的ではないと言っていることから、日本自体は存在しないか、あっても知名度が低いと思われる。クロノコウスケ、という音の響きが自然で無い名前だらけの土地ということだろう。

 そこまで理解して、それからようやく幸助は唖然とした。

 ──待て、この女今、『この世界』と言ったか?

 まるで、世界自体が複数あって、幸助のと彼女のそれが本来違うとでもいうように。

「あれ、きみ、日本人であってるよね。たまーに日本人的特徴備えてるのに、『ヤマト人』とか『ワノクニビト』とかいう人がいてねー、大体は日本人なんだけど。もちろん、日本人以外も来るよ、まぁ全部まとめて来訪者って言葉で一括りにしてるけど、きみもそれってわけ」

「……つまり、ここは地球じゃないのか」

 自分で口にして、その荒唐無稽さに驚く。

「理解が早くて助かるけど、ちょっと気持ち悪いなぁ。もっと驚いてくれた方が可愛げがあるよ?」

 小学生の頃だったか、そんな漫画を読んだことがある。現実では冴えない学生だった少年が、ある日異界への門を潜ると特別な力が開花し、個性豊かな仲間達との冒険へ赴くといった話だ。

 当時は夢中になって読んだ。あの胸の高鳴りは記憶に久しい。とても遠く、我が事ではないようだ。

 自分は今、あの時のマンガの主人公と同じ状況にいるのか。

 日本から異世界へ。受け入れがたいことこの上ないが、そういうことなのか。

 幻覚説の対抗馬が現れたが、どちらがマシかは今のところ判断がつかない。

「それが本当だとして、何故お前が俺の自殺を止める」

 これが現実と仮定しても、全てをすぐに受け入れられるわけではない。

 少女は唇の形を可愛らしく変えて、頬に人差し指を当てながら、語り出す。

「あたしは案内人なんだ。何の説明も無くゲームが始まると、皆困るでしょ? ルール説明だったり世界観説明だったりが無いと、とても不親切だ。だから、あたしがその親切心なの。もちろん、生きた人間だよ。っていうか、元は同類。きみとは違う世界から、此処に来たの。把握出来た?」

「答えになってない」

「だね。うん、自殺、自殺を止める理由。んー、あたしはさ、事故死から此処に転生したんだけど、そういう人は哀れみの言葉を聞くのね。でも、自殺をする人間の場合はこう言われるらしいんだ」

 少女は、意地の悪い笑みを幸助へ向ける。

「勿体無い、ってさ。きみの自殺を止める理由は、それに尽きるよ。

 ねぇクロ。話を聞いてみない?

 死んじゃうなんて勿体無いって。

 どうせなら、この世界で幸せになろうよ」

 誘うようなその声は、どこか、悪魔の囁きを思わせた。



 幸助には双子の妹が一人いた

 過去形である。今はもういない。

 妹はわがままで生意気で面倒臭いところも多かったが、善良だった。

 内弁慶なところがある反面他者には優しく、友達思いでもあり、周囲の人気を集めていた。 

 幸助はそんな彼女を馬鹿にしてからかいながら、自然にそう振る舞うことの出来る部分をとても好ましく思っていた。妹・永遠トワも、そんな兄を嫌ってはいなかったと思う。

 身内の欲目もあるだろうが、妹はとても可愛い女の子だった。双子とは言っても二卵性で、妹に対して兄の顔は平凡だ。似ていないとよく言われたし、並んで歩くと兄妹より恋人同士と判断されることが多かったくらいだ。そういう時、皆が口を揃えてこう言った。

 可愛い彼女さんですね、と。

 それ自体は誤解なわけだが、ともかく妹は他人から見ても容姿が優れた少女だったらしい。

 だから死んだ。

 五年前の冬。雪の降る日のことだ。永遠の遺体は公園で発見された。

 全裸で、周囲には燃やされた衣服の灰が舞っていたらしい。

 レイプされて、放置されて、凍死したのだという。

 幸助は妹が輪姦され凍えている間、友人と呑気に遊んでいた。

 生まれて初めて、自殺願望というものを理解した。

 なるほど、耐えられない現実を前に自殺というのは最適な逃亡手段なのだ。

 でも、だめだ。妹一人守れないクソ兄貴は確かに死んだ方がいい。

 だがその前に、妹を傷つけたクソ野郎を殺さなければ気が済まない。

 それから幸助は五年の時を掛け、犯人グループを見つけ出し、復讐を果たした。

 思いつく限りの手段で苦痛を与え、殺した。そこに至るまで、幸助は何でもした。

 それまでの人生で一生しないだろうと思っていたことも、多く経験した。

 その果てに、妹の仇を討つことが出来たのだ。

 そして、残ったのは自殺願望だけだった。だから、少年はそれを果たそうとした。

 でも、出来なかった。いや、命は断てたのかもしれないが、新たな命と身体を与えられてしまった。

 目の前に、シロと名乗った女がいる。

 彼女の言葉を聞き状況を理解したことで、幸助にはどうしても確認せねばならないことが出来た。

「……話は聞いてやってもいい」

「おぉ~、確かに提案してるのはこっちなんだけど、それにしても偉そうだねきみ」

 彼女が完全に善意で動いているなら、幸助の態度は失礼にあたるものかもしれない。

 ただ、すぐに改めようとは思えなかった。まだ、何も分かっていないのだから。

「お前は案内人を何年やってる」

「ん? 二年ちょいかな。でもこの世界には十年前からいるよ。どうして?」

 園児くらいの頃にはもう此処にいたということか。

 ここまでの話を聞く限り、来訪者というのはそう珍しい存在でもないらしい。

 少なくとも幸助だけが特別というわけではなさそうだ。そして幸助が出現したこの神殿に関して言えば、喚び出されるのは日本人的特徴を備えている者であることが多いという。

 喚び出される基準は不明だが、少なくとも死因は関係ないのだろう。

 幸助が自殺なのに対し、少女は事故死だというのだから。

 一つの可能性が脳裏をよぎる。幽鬼の如き足取りでシロに近づく。

「……黒野、永遠ってやつを、知らないか」

 尋ねる声は、震えていた。もしかしたら、妹もこの世界に飛ばされているかもしれない。

 そう思うと、平静を保つことなんて出来なかった。

「トワ……?」

 シロは幸助を見て、を歪める。少年というより、その奥の何かを見ているような視線だった。

「十年前から今日までこの神殿に来た人のことは覚えてるつもりだけど、トワって人は来てないよ」

「『この神殿』ってことは他の神殿があるんだよな。そこに日本人の来訪者が現れることは!?

 少女の小さな肩を両手で掴み、幸助は詰め寄る。

「ちょっ、痛いんだけど。……他の神殿って言っても全部でいくつあるかもわからないし、ただ、日本人が転生してくる神殿は他にもあるよ。それと……」

「何だ!?

「トワってそんな珍しい名前じゃないし、クロみたいに過去生の名前の大部分を省略する人も多いし、そもそもクロの探してる人が転生してるかもわからないけど、それでもいいなら、教えたげるから」

「教えたげる?」

「あたしが知ってる限りの、トワって名前の人の情報。ちゃんと教えたげるからさ。だから……」

 それから、今までずっと柔和な態度を崩さなかったシロが責めるように幸助をめ付けた。

「とりあえず離してくれるかな? 痛いんだってば」

 幸助は咄嗟に手を離し、数歩離れてから、自分が冷静でなかったことに気付いた。

 常より冷静でいることを徹底していたつもりだが、こればかりはどうしようもない。

「……悪かった」

 頭を下げてはみたものの、文化の違いによっては通じないかもしれない。

 しかしどうやら、その点は杞憂だったようだ。

「いいよ。ただ、か弱い女の子にいきなり掴みかかるなんてよくないなぁ、って思っただけ」

 胸に刃物でも刺し込まれたような痛みが走る。

 幸助は今、自分が最も忌み嫌う行為をとってしまったのだ。

 罪なき者に暴力を振るってしまった。肩を掴むとはいっても、痛みを与えたのなら暴力に違いない。

 顔を上げることが出来ないでいる幸助に、何を思ったのかシロが明るい声を掛ける。

「あ、あれ? 何か落ち込んじゃってる? 大丈夫だよ、あたしこう見えて頑丈だし。そりゃ見た目はか弱い美少女だろうけど……ってね、あはは」

 どうやら励まそうとしているようだ。

「それでも、悪いことをした。すまない……」

「そ、そんな気にしなくても……。えぇと、そうだ! クロノトワ? さん? ちゃん? って名前からして家族だよね。お母さん? お姉ちゃん? 妹さんかな? はっ……まさか奥さんとか?」

「……妹だ」低い声で答える幸助に、この時ばかりは彼女の「そっか」と返す声も沈んでいた。

「さっきまで死んだような目してたのに、妹さんがこっち来てるかもってなった時から目に生気が宿ってたね。うん、家族を大事に出来る男はポイント高いよ。それに免じて許してやろう~」

 というようなことが言いたかったらしい。いい奴なんだな、と幸助は思った。初対面の無礼な人間に、こうも気を遣えるなんて。あるいは、案内人の職務中であるからということなのかもしれないが。

「ありがとう……。それじゃあ、話を聞かせてもらえるか?」

 幸助が顔を上げると、シロはほっとしたように胸に手を当て、表情を綻ばせた。

「ほうほう。『聞いてやってもいい』から随分な進歩だねぇ。可愛いとこあるじゃん」

「……さっきまでの態度を含めて、もう一度謝ろうか?」

 その言葉に、シロは炭酸のように爽やかに弾ける笑い声を上げた。

「あははっ、そんなの要らないよ」

 つま先立ちするように、彼女がぴょこぴょこと奇妙な動きを見せる。

 ぽよんぽよんと、乳が揺れた。真剣な空気の形成を阻害されたようで、幸助は顔を顰める。

「話を、聞かせてくれるんじゃないのか?」

「するよ、歩きながらね。ついてきて」

 と言って、シロは歩き出す。

 幸助は言葉に頷きを返して、彼女の背中を追った。